六十五
お島が自分だけで、どうかしてこの商売に取着いて行きたいとの望みを抱きはじめたのは、彼女が一日工場でミシンや
裁板
(
たちいた
)
の前などに坐って、一円二円の仕事に働くよりも、註文取や得意まわりに、
頭脳
(
あたま
)
を働かす方に、より以上の興味を感じだしてからであった。
「被服も随分扱ったが、女の洋服屋ってのは、ついぞ見たことがないね」
ちょいちょい
納品
(
おさめもの
)
を持って行くうちに、
直
(
じき
)
に
昵近
(
ちかづき
)
になった被服廠の役員たちが、そう云って、てきぱきした彼女の
商
(
あきな
)
いぶりを
讃
(
ほ
)
めてくれた
辞
(
ことば
)
が、自分にそうした才能のある事をお島に考えさせた。
「洋服屋なら女の私にだってやれそうだね」
仕事の途絶えたおりおりに、家の方にいるお島のところへ遊びに来る小野田に、お島がその事を言出したのは、今までその働きぶりに目を注いでいる小野田に取っては、自分の手で、彼女を物にしてみようと云う彼の企てが、巧く
壺
(
つぼ
)
にはまって来たようなものであった。
「遣ってやれんこともないね」感じが鈍いのか、腹が太いのか解らないような小野田は、にやにやしながら
呟
(
つぶや
)
いた。名古屋の方で、
二十歳頃
(
はたちごろ
)
まで年季を入れていたこの男は、もう三十に近い年輩であった。
上向
(
うわむき
)
になった大きな
鼻頭
(
はながしら
)
と、出張った
頬骨
(
ほおぼね
)
とが、彼の顔に
滑稽
(
こっけい
)
の相を与えていたが、
脊
(
せ
)
が高いのと髪の毛が美しいのとで、洋服を着たときの彼ののっしりした
厳
(
いかつ
)
い姿が、どうかするとお島に頼もしいような心を抱かしめた。
「私のこれまで出逢ったどの男よりも、お前さんは男振が悪いよ」お島はのっそりした無口の彼を前において、時々遠慮のない口を利いた。
「むむ」小野田はただ笑っているきりであった。
「だけどお前さんは洋服屋さんのようじゃない。よくそんな風をしたお役人があるじゃないか」
しなくなした
前垂
(
まえだれ
)
がけの鶴さんや、
蝋細工
(
ろうざいく
)
のように唯美しいだけの浜屋の若主人に物足りなかったお島の心が、小野田のそうした
風采
(
ふうさい
)
に段々
惹着
(
ひきつ
)
けられて行った。
「工場から引っこぬいて、これを自分の手で男にしてみよう」
薄野呂
(
うすのろ
)
か何ぞのような眠たげな顔をして、いつ話のはずむと云うこともない小野田と親しくなるにつれて、不思議な意地と
愛着
(
あいじゃく
)
とがお島に起って来た。
「洋服屋も好い商売だが、やっぱり
資本
(
もと
)
がなくちゃ駄目だよ。金の寝る商売だからね」小野田はお島に話した。
「
資本
(
もと
)
があってする商売なら、何だって出来るさ。だけれど、
些
(
ちょっ
)
とした店で、どのくらいかかるのさ」
「店によりきりさ。表通りへでも出ようと云うには、
生
(
なま
)
やさしい金じゃとても駄目だね」