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七十

「どうなすったね」

 脇目もふらずに、一日仕事にばかり坐っている沈みがちなその女は、 ( あき ) れたような顔をして、お島が少し落着きかけて来たとき、言出した。

貴女 ( あんた ) はよく稼ぐというじゃないかね。どうしてそう困るね」

「私がいくら稼いだって駄目です。私はこれまで ( なま ) けるなどと云われたことのない女です」お島は涙を ( ) きながら言った。

「洋服屋というものは、大変 ( もう ) かる商売だということだけれど......二人で稼いだら楽にやって行けそうなものじゃないかね」女はやっぱり仕事から全く心を離さずに笑っていた。

「それが駄目なんです。あの男に悪い病気があるんです。私は ( ) ろうと思ったら、どんな事があっても 遣通 ( やりとお ) そうって云う気象ですから、のろのろしている名古屋ものなぞと、気のあう ( はず ) がないんです」

「そんな人とどうして一緒になったね」女はねちねちした調子で言った。

 お島は「ふむ」と笑って、泣顔を 背向 ( そむ ) けたが、この女には、自分の気分がわかりそうにも思えなかった。

「でも東京というところは、気楽な処じゃないかね。 私等 ( わしら ) ( しゅうと ) さんと気が合わなんだで、 ( こう ) して別れて東京へ出て来たけれど、随分辛い辛抱もして来ましたよ。今じゃ 独身 ( ひとり ) の方が気楽で大変好いわね。御亭主なんぞ一生持つまいと思っているわね」

「何を言っているんだ」と云うような顔をして、お島は 碌々 ( ろくろく ) それには耳も仮さなかった。そしてやっぱり自分一人のことに思い ( ふけ ) っていた。時々胸からせぐりあげて来る涙を、強いて ( おし ) つけようとしたが、どん底から 衝動 ( こみあ ) げて来るような悲痛な ( おもい ) が、 ( とめ ) どもなく波だって来て為方がなかった。どこへ廻っても、誤り ( しいた ) げられて来たような自分が、 可憐 ( いじらし ) くて ( なさけ ) なかった。

 小野田がのそりと入って来たときも、静に針を動かしている女の傍に、お島は坐っていた。どんよりした目には、こびり着いたような涙がまだたまっていた。

「何だ、そんな顔をして。だから ( おれ ) が言うじゃないか、どんな商売だって、一年や二年で物になる気遣はないんだから、家のことはかまわないで、お前はお前で働けばいいと」

 小野田はそこへ 胡坐 ( あぐら ) をくむと、 ( たもと ) から ( たばこ ) を出してふかしはじめた。

「被服の下請なんか、割があわないからもう断然止めだ。そして 明朝 ( あした ) から註文取におあるきなさい」

 お島は「ふむ」と鼻であしらっていたが、女の註文取という小野田の思いつきに、心が動かずにはいなかった。

「そしてお前には外で活動してもらって、己は内をやる。そうしたら或は成立って行くかも知れない」

「こんな 身装 ( なり ) で、外へなんか出られるもんか」お島ははねつけていたが、誰もしたことのないその仕事が、何よりも先ず自分には愉快そうに思えた。

 帰るときには、お島のいらいらした感情が、すっかり ( なだ ) められていた。そして 明日 ( あした ) から又初めての仕事に働くと云うことが、何かなし彼女の ( ほこり ) ( そそ ) った。

「こうしてはいられない」

 彼女の心にはまた新しい弾力が与えられた。