九十七
暑い東京にも
居堪
(
いたたま
)
らなくなって、浜屋がその宿を引払って山へ帰るまでに、お島は
幾度
(
いくたび
)
となくそこへ訪ねて行ったが、彼女はそれを小野田へ全く秘密にはしておけなかった。ちょっと
手許
(
てもと
)
の苦しい時なぞに、お島は浜屋から
時借
(
ときがり
)
をして来た金を、小野田の前へ出して、その男がどんな場合にも、自分の言うことを聴いてくれるような関係にあることを、
微見
(
ほのめ
)
かさずにはいられなかった。
浜屋はその
通
(
かよ
)
っている病院で、もう十本ばかり、やってもらった注射にも飽きて、また出るにしても、盆前にはどうしても一度は帰らなければならぬ家の用事を控えている体であったが、お島たち夫婦の内幕が、初め聴いたほど巧く行っていないことが、幾度も逢っているうちに、
自然
(
ひとりで
)
に彼女の口から洩聞されるので、その事も気にかかっているらしかったが、やっぱり自分の手でそれをどうしようと云う気にもなれないらしかった。
「そんな事を言わずにまあ辛抱するさ」
お島はその時の調子で、どうかすると心にもない自分の
身
(
み
)
の
上
(
うえ
)
談
(
ばなし
)
がはずんで、男に
凭
(
もた
)
れかかるような
姿態
(
ようす
)
を見せたが、聴くだけはそれでも熱心に聴いている浜屋が、何時でもそういった風の
応答
(
うけごたえ
)
ばかりして笑っているのが物足りなかった。
「あの時分とは、まるで人が変ったね」お島は男の顔を眺めながら言った。
「変ったのは私ばかりじゃないよ」お島は男がそう云って、自分の丸髷姿をでも見返しているような
羞恥
(
しゅうち
)
を感じて来た。
「月日がたつと誰でもこんなもんでしょうか」
お島は二階の六畳で疲れた体を
膝掛
(
ひざかけ
)
のうえに
横
(
よこた
)
えている男の傍に坐って、他人行儀のような口を利いていたが、興奮の去ったあとの彼女は、長く男の傍にもいられなかった。
部屋には薄明い電気がついていた。お島はどうしても
直
(
ぴった
)
り合うことの出来なくなったような、その時の厭な心持を想出しながら、
涼気
(
すずけ
)
の立って来た忙しい夕暮の町を帰って来たが、気重いような心持がして、店へ入って行くのが
憚
(
はばか
)
られた。
「
己
(
おれ
)
も一度その人に逢っておこう」
小野田はお島から金を受取ると、そう云って感謝の意を
表
(
あらわ
)
した。
「
可
(
い
)
けない可けない」お島はそれを拒んで、「あの人は
莫迦
(
ばか
)
に内気な人なんです。田舎にもあんな人があるかと思うくらい、
温順
(
おとな
)
しいんですから、人に逢うのを、大変に厭がるんです」
小野田はそれを気にもかけなかったが、やっぱりその男のことを聴きたがった。
「それは東京にも滅多にないような好い男よ」お島は笑いながら応えたが、自分にも顔の
赧
(
あか
)
くなるのを禁じ得なかった。