五十五
山に雪が融けて、紫だったその姿が、くっきり
碧
(
あお
)
い空に見られるようになる頃までに、お島は三度も四度も父親の手紙を受取った。
冬中
閉
(
とざ
)
されてあった
煤
(
すす
)
けた部屋の
隅々
(
すみずみ
)
まで、
東風
(
こち
)
が吹流れて、町に
陽炎
(
かげろう
)
の立つような日が、
幾日
(
いくか
)
となく続いた。淡雪が
意
(
おも
)
いがけなく、また降って来たりしたが、春の日光に照されて、直にびしょびしょ消えて行った。
樋
(
ひ
)
の
破目
(
われめ
)
から漏れおちる
垂滴
(
すいてき
)
の
水沫
(
しぶき
)
に、光線が美しい虹を
棚引
(
たなびか
)
せて、
凧
(
たこ
)
の
唸声
(
うなりごえ
)
などが空に聞え、乾燥した浜屋の前の往来には、よかよか
飴
(
あめ
)
の太鼓が子供を呼んでいた。
「お
暖
(
あった
)
かになりやした」
浜屋の炉端へ来る人の口から、そんな挨拶が聞かれた。
ちらほら梅の咲きそうな裏庭へ出て、冷い
頸元
(
えりもと
)
にそばえる軽い風に吹かれていると、お島は
荐
(
しきり
)
に都の空が恋しく想出された。
「御父さんから、また手紙が来ましたよ」
人のいないところで、帯の間から手紙を出してお島は男に見せた。
正月頃までは、ちょいちょい嫁の病気を見にいっていた男は、この頃ではすっかり
市
(
まち
)
の方へも足を遠
退
(
の
)
いていた。湯殿口や前二階で、ひそひそ
話
(
ばなし
)
をしている二人の姿が、妹達の目にも立つようになって来た。
そんな処に何時までぐずぐずしていないで、早く立って来い。父親の手紙は、いつも同じようであったが、お島の身のうえについて、立っているらしい
碌
(
ろく
)
でもない
噂
(
うわさ
)
が、
昔
(
むか
)
し
気質
(
かたぎ
)
の
老人
(
としより
)
を怒らせている事は、その
文言
(
もんごん
)
でも受取れた。
「どうしましょう」
お島はその
度
(
たんび
)
に、目に涙をためて
溜息
(
ためいき
)
を
吐
(
つ
)
いたが、還るとも還らぬとも決らずに、話がぐずぐずになる事が多かった。
「御父さんは、私が酌婦にでもなっているものと思っているのでしょう」
お島はそうも言って笑った。
一緒に東京へ出る相談などが、二人のあいだに持上ったが、何もする事のない男は、そこまで盲目には成りきれなかった。
市
(
まち
)
へお島を
私
(
そっ
)
と住わしておこうと云う相談も出たが、精米所の補助を受けて、かつかつ遣っている浜屋の
生計向
(
くらしむき
)
では、それも出来ない相談であった。
一里半ほど東に当っている
谿川
(
たにがわ
)
で、水力電気を起すための、測量師や工夫の幾組かが東京からやって来たり、山から降りて来たりする頃には、二人のなかを、誰も
異
(
あや
)
しまなかった。月はもう五月に入りかけていた。