五十二
けれど、そうしてちょいちょい往ってみる、お島の目に映ったところでは、おかなは兄の思っているほど気楽な身分でもなかった。おかなの話によると、
鉱敷課
(
こうしきか
)
とやらの方に勤めて、鉱夫達と一緒に穴へ入るのが職務であるその旦那から、月々
配
(
あてが
)
われる生活費と小遣とは、
幾許
(
いくら
)
でもなかった。もと居た
市
(
まち
)
の方では、誰も知らないもののない壮太郎との
情交
(
なか
)
が、
鉱山
(
やま
)
の人達の口から、薄々旦那の耳へも伝わってから、金の受渡しが一層やかましくなって、おかなはその事でどうかすると旦那と
豪
(
えら
)
い喧嘩を始めることすらあった。夏の頃から、山間の湯に行ってみたり、
市
(
まち
)
の方の医者へ通っていたりしていたおかなの体は、
涼気
(
すずけ
)
が経つに従って、いくらか肉づいて来たようであったが、やっぱり
色沢
(
いろつや
)
が出て来なかった。それに
何方
(
どちら
)
を向いても、山ばかりのこの寂しい町で、雪の深い長い一冬を越すことは、今まで
賑
(
にぎや
)
かな
市
(
まち
)
にいたおかなに取っては、穴へ入るほど心細い仕事であった。どこか暖い方へ出て、もとの商売をしよう! おかなは時々その相談を、壮太郎にも為てみるのであった。
旦那から
少
(
すこし
)
ばかりの手切をもらって、おかなが知合をたよって、着のみ着のままで千葉の方へ落ちて行くことになった頃には、壮太郎もすっかり
零落
(
おちぶ
)
れはてていた。月はもう十二月であった。山はどこを見ても真白で、町には毎日々々じめじめした
霙
(
みぞれ
)
が降ったり、雪が積ったりしていた。
東京の
自宅
(
うち
)
の方へ、時々無心の手紙などを書いていた壮太郎が、何の
手応
(
てごたえ
)
もないのに気を腐らして、女から送って来た金を旅費にして、これもこの町を立って行ったのは、十二月の月ももう
半過
(
なかばすぎ
)
であった。旅客の姿の
幾
(
ほと
)
んど全く絶えてしまった停車場へ、
独
(
ひとり
)
遺
(
のこ
)
されることになったお島は、兄を送っていった。精米所の主人や、浜屋の
内儀
(
かみ
)
さんなどに、家賃や、時々の小遣などの借のたまっていた壮太郎のために、双方の
談合
(
はなしあい
)
で、その
質
(
かた
)
に、お島の体があずけられる事になったのであった。
寒い冬空を、防寒具の用意すらなかった兄の壮太郎は、古い
蝙蝠傘
(
こうもりがさ
)
を一本もって、
宛然
(
さながら
)
兇状持
(
きょうじょうもち
)
か何ぞのような身すぼらしい風をして、そこから汽車に乗っていった。鳥打の
廂
(
ひさし
)
から、
落窪
(
おちくぼ
)
んだ目ばかりがぎろりと薄気味わるく光っていた。
その日は、夕方から雪がぼそぼそ降出して来た。綿の入ったものの支度すらできなかったお島は、
袷
(
あわせ
)
の肌にしみる寒さに顫えながら、汽車の出てしまった寂しい停車場を、浜屋の番傘をさして、独りですごすご出て来た。
「兄さんにすっかりかつがれてしまったんだ!」
お島は初めて気がついたように、自分の陥ちて来た立場を考えた。
達磨
(
だるま
)
などの多い、飲食店のなかからは、煮物の煙などが、薄白く寒い風に
靡
(
なび
)
いていた。