百十三
途中汽車を乗替えたり、電車に乗ったりして、お島はその日の昼少し過ぎに、遠い山のなかの或温泉場に着いた。
浴客はまだ何処にも
輻湊
(
ふくそう
)
していなかったし、
途々
(
みちみち
)
見える貸別荘の門なども大方は
閉
(
しま
)
っていて、松が六月の
陽炎
(
ようえん
)
に
蒼々
(
あおあお
)
と繁り、道ぞいの流れの向うに裾をひいている山には濃い
青嵐
(
せいらん
)
が
煙
(
けぶ
)
ってみえた。
お島の導かれたのは、ある古い
家建
(
やだち
)
の
見晴
(
みはらし
)
のいい二階の一室であったが、女中に
浴衣
(
ゆかた
)
に着替えさせられたり、建物のどん底にあるような浴場へ案内されたりする
度
(
たんび
)
に、一人客の寂しさが感ぜられた。
浴場の窓からは、草の根から水のちびちびしみ出している
赭土山
(
あかつちやま
)
が
侘
(
わび
)
しげに見られ、
檐端
(
のきば
)
はずれに枝を
差交
(
さしかわ
)
している、山国らしい
丈
(
たけ
)
のひょろ長い木の
梢
(
こずえ
)
には、
小禽
(
ことり
)
の声などが聞かれた。
「お一人でお寂しゅうございますでしょう」
浴後の軽い疲をおぼえて、うっとりしているところへ、女がそう言いながら
膳部
(
ぜんぶ
)
を運んで来た。
笑い声などを立てたことのない、この二日ばかりの旅が、物悲しげに思いかえされた。どこの部屋からか蓄音器が高調子に聞えていた。
電話室へ入って、東京の
自宅
(
うち
)
の様子を聞くことのできたのは、それから大分たってからであった。小野田はまだ帰っていなかった。
「好いところだよ。旦那の留守に、お前さんも一日遊びに来たらいいだろう」
お島は四五日の
逗留
(
とうりゅう
)
に、金を少し取寄せる必要を感じていたので、その事を、留守を頼んでおいた若い職人に頼んでから、そう言って
誘
(
いざな
)
った。
「それから順吉もつれて来て頂戴よ。あの子には
散々
(
さんざ
)
苦労をさせて来たから、一日ゆっくり遊ばしてやりましょうよ」
お島はそうも言って頼んだ。
その晩は、水の音などが耳について、
能
(
よ
)
くも
睡
(
ねむ
)
られなかった。
夜があけると、東京から人の来るのが待たれた。そして怠屈な半日をいらいらして暮しているうちに、
旋
(
やが
)
て昼を大分過ぎてから二人は女中に案内されて、お島の着替えや水菓子の入った
籠
(
かご
)
などをさげて、どやどやと入って来た。部屋が急に
賑
(
にぎや
)
かになった。
「こんな時に、私も保養をしてやりましょうと思って。でも、一人じゃつまらないからね」お島は
燥
(
はしゃ
)
いだような気持で、いつになく身綺麗にして来た若い職人や、お島の
放縦
(
ほうじゅう
)
な調子におずおずしている順吉に話しかけた。
「医者に勧められて湯治に来たといえば、それで済むんだよ。事によったら、上さんあの店を出て、この人に
裁
(
たち
)
をやってもらって、
独立
(
ひとりだち
)
でやるかも知れないよ」
お島は順吉にそうも言って、この頃考えている自分の
企画
(
もくろみ
)
をほのめかした。