六十二
山の夢に浸っているようなお島は、直に
邪慳
(
じゃけん
)
な母親のために
刺戟
(
しげき
)
されずにはいなかった。以前から善く聴きなれている「
業突張
(
ごうつくばり
)
」とか「
穀潰
(
ごくつぶ
)
し」とかいうような
辞
(
ことば
)
が、彼女のただれた心の
創
(
きず
)
のうえに、また新しい痛みを与えた。
お島が
下谷
(
したや
)
の方に独身で暮している、父親の
従姉
(
いとこ
)
にあたる伯母のところに、暫く体をあずけることになったのは、その夏も、もう盆過ぎであった。
素
(
もと
)
は或由緒のある剣客の思いものであったその伯母は、時代がかわってから、さる宮家の
御者
(
ぎょしゃ
)
などに取立られていた
良人
(
おっと
)
が、悪い
酒癖
(
しゅへき
)
のために職を
罷
(
や
)
められて間もなく死んでしまった後は、一人の娘とともに、
少
(
すこし
)
ばかり習いこんであった三味線を、近所の娘達に教えなどして暮していたが、今は商売をしている娘の時々の仕送りと、人の賃仕事などで、
漸
(
ようよ
)
う生きている身の上であった。
昔しを憶いだすごとに、時々口にすることのある酒が、
萎
(
な
)
えつかれた脈管にまわってくると、
爪弾
(
つめびき
)
で
端唄
(
はうた
)
を
口吟
(
くちずさ
)
みなどする三味線が、
火鉢
(
ひばち
)
の側の壁にまだ懸っていた。良人であったその剣客の肖像も、
煤
(
すす
)
けたまま
梁
(
うつばり
)
のうえに
掲
(
かか
)
っていた。
お島は養家を出てから、一二度ここへも顔出しをしたことがあったが、年を取っても身だしなみを忘れぬ伯母の容態などが、荒く育ってきた彼女には厭味に思われた。色の白そうな、
口髭
(
くちひげ
)
や
眉
(
まゆ
)
や額の
生際
(
はえぎわ
)
のくっきりと美しいその良人の礼服姿で
撮
(
と
)
った肖像が、その家には不似合らしくも思えた。
「伯母さんの旦那は、こんなお上品な人だったんですかね」
お島は不思議そうにその前へ立って笑った。その良人が、若いおりには、或大名のお抱えであったりした
因縁
(
いんねん
)
から、桜田の不意の出来事当時の模様を、この伯母さんは、お島に話して聞かせたりした。子供をつれて浅草へ遊びに行ったとき、子供が荷物に突当ったところから、
天秤棒
(
てんびんぼう
)
を振あげて向って来る甘酒屋を、群衆の前に取って投げて、へたばらしたという話なども、お島には芝居の舞台か何ぞのように、その時のさまを想像させるに過ぎなかった。
「この伯母さんも、旦那のことが忘れられないでいるんだ」
伯母と一緒に暮すことになってから、お島は段々彼女の心持に、同感できるような気がして来た。
「やっぱり男で苦労した若い時代が忘れられないでいるんだ」
お島はそうも思った。
そんなに好いものも縫えなかった伯母の身のまわりには、それでも仕事が絶えなかった。中には芸者屋のものらしい派手なものもあった。
その
手助
(
てだすけ
)
に坐っているお島は、仕事がいけぞんざいだと云って、どうかすると物差で伯母に手を
打
(
ぶ
)
たれたりした。
重
(
おも
)
に気のはらない、急ぎの仕事にお島は重宝がられた。