百十二
目ざす町に近い或小駅で、お島は乗込んで来る三四人の新しい乗客が、自分の向側へ来て坐るのを見た。
それらの人は、どこかこの近辺の温泉場へでも遊びに行って来たものらしく、汽車が動きだしてからも、
手々
(
てんで
)
にそんな話に
耽
(
ふけ
)
っていた。山の町の人達の
噂
(
うわさ
)
も、彼等の口に
上
(
のぼ
)
ったが、浜屋々々と云う
辞
(
ことば
)
が、一層お島の耳についた。汽車の窓から、首をのばして彼等の見ている山の形が、ふと浜屋の記憶を彼等に
喚起
(
よびおこ
)
したのであった。その山は、そこから二三里の先の灰色の水霧のなかに
幽
(
かす
)
かな姿を見せていた。
「あなた
方
(
がた
)
はS――町の方のようですが、浜屋さんがどうかしましたのですか」
お島は、
断々
(
きれぎれ
)
に耳につくその話に、ふと不安を感じながら訊いた。
「
私
(
わたくし
)
は東京から、あの人に少し用事があって来たものですが、お話の様子では、あの人があの山のなかで何か災難にでも逢ったと云うのでしょうか」
遊女屋の主人か、芸者町の
顔利
(
かおきき
)
かと云うような、それらの人たちは、みんなお島の方へその目を注いだ。
金歯などをぎらぎらさせたその中の一人の話によると、浜屋は近頃自分の手に買取ったその山のある一部の森林を見廻っているとき、
雨
(
あま
)
あがりの
桟道
(
そばみち
)
にかけてある橋の板を踏すべらして、
崖
(
がけ
)
へ
転
(
ころが
)
り
陥
(
お
)
ちて
怪我
(
けが
)
をしてから、病院へ
担
(
かつ
)
ぎこまれて、間もなく死んでしまったと云うのであった。
お島はそれを聴いたとき、あの男が、そんな不幸な死方をしたとは、信じられなかったが、その死の日や刻限までを聴知ってから、次第にその確実さが感じられて来た。
「すれば、あの人の
霊
(
たましい
)
が、私をここへ引寄せたのかもしれない」
お島はそうも考えながら、次第に深い失望と哀愁のなかへ心が浸されて行くのを感じた。
浜屋へついたのは、日の暮方であった。以前よく
往来
(
ゆきき
)
をしたステーションの広場には、新しい家などが建っているのが二三目についたが、
俥
(
くるま
)
のうえから見る大通りは、どこもかしこも変りはなかった。雨がはれあがって、しめっぽい六月の空の下に、高原地の古い町が、
澱
(
おど
)
んだような静さと寂しさとで、彼女の
曇
(
うる
)
んだ目に映った。
お島はその
夜
(
よ
)
一夜
(
ひとよ
)
は、むかし自分の
拭掃除
(
ふきそうじ
)
などをした浜屋の二階の一室に泊って、
翌
(
あく
)
る
日
(
ひ
)
は、町のはずれにある
菩提所
(
ぼだいしょ
)
へ墓まいりに行った。その寺は、松や杉などの深い木立のなかにある坂路のうえにあった。
松風の音の寂しい山門を出てからも、お島はまだ墓の下にあるものの執着の
喘
(
あえ
)
ぎが、耳につくような無気味さを感じた。彼女は急いで道をあるいた。
半日を浜屋で暮して、十二時頃お島はまた汽車に乗った。
「どこか温泉で二三日遊んでいこう」
失望の安易に
弛
(
ゆる
)
んだ彼女は、汽車のなかでそうも考えた。