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五十六

 嫁の 生家 ( さと ) や近所への聞えを ( はばか ) るところから、 主婦 ( おかみ ) の取計いで、お島がそれとなく、浜屋といくらか縁続きになっている山の或温泉宿へやられたのは、その月の末頃であった。

 S――町の ( はずれ ) を流れている川を ( さかのぼ ) って、重なり合った 幾箇 ( いくつ ) かの 山裾 ( やますそ ) 辿 ( たど ) って行くと、 ( じき ) にその温泉場の白壁や ( ) ( むね ) が目についた。 勾配 ( こうばい ) の急な町には ( はや ) い小川の流れなどが音を立てて、石高な狭い道の両側に、幾十かの人家が窮屈そうに軒を並べ合っていた。

 お島の行ったところは、そこに十四五軒もある温泉宿のなかでも、古い方の家であったが、 崖造 ( がけづくり ) の新しい二階などが、蚕の揚り時などに遊びに来る、 居周 ( いまわり ) の人達を迎えるために、地下室の形を備えている味噌蔵の上に建出されてあったりした。庭にはもう 苧環 ( おだまき ) が葉を ( しげ ) らせ、夏雪草が日に ( ) けそうな淡紅色の花をつけていた。

 雪の深い冬の間、 ( たて ) きってあったような、その 新建 ( しんだち ) の二階の板戸を開けると、直ぐ目の前にみえる山の傾斜面に ( ひら ) いた畑には、麦が青々と伸びて、蔵の 瓦屋根 ( かわらやね ) のうえに、 小禽 ( ことり ) ( うれ ) しげな声をたてて ( ) いていた。山国の深さを思わせるような朝雲が、見あげる山の松の ( こずえ ) ごしに ( ) しく眺められた。

  繭時 ( まゆどき ) にはまだ少し間のあるこの温泉場には、近郷の百姓や附近の町の人の姿が ( たま ) に見られるきりであった。お島はその間を、ここでも針仕事などに坐らせられたが、どうかすると若い美術学生などの、 ( はこ ) をさげて飛込んで来るのに出逢った。

「こんな山奥へいらして、何をなさいますの」

 お島は絶えて聞くことの出来なかった、東京弁の懐かしさに 惹着 ( ひきつ ) けられて、つい話に ( とき )

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を移したりした。

 山越えに、××国の方へ ( わた ) ろうとしている学生は、紫だった朝雲が、まだ ( やま ) ( ) に消えうせぬ ( ) を、軽々しい 打扮 ( いでたち ) をして、拵えてもらった皮包の弁当をポケットへ入れて、ふらりと立っていった。

「何て気楽な書生さんでしょう。男はいいね」

 お島は 可羨 ( うらやま ) しそうにその後姿を見送りながら、 主婦 ( かみさん ) に言った。

 三十代の夫婦の外に、七つになる女の貰い子があるきり、 老人気 ( としよりけ ) のないこの家では、お島は比較的気が ( のん ) びりしていた。始終蒼い顔ばかりしている病身な主婦は、暖かそうな日には、明い裏二階の部屋へ来て、 ( まれ ) には針仕事などを取出していることもあったが、大抵は薄暗い自分の部屋に 閉籠 ( とじこも ) っていた。

 夏らしい暑い日の光が、山間の貧しい町のうえにも照って来た。庭の柿の幹に 青蛙 ( あおがえる ) 啼声 ( なきごえ ) がきこえて、 ( しろがね ) のような大粒の雨が ( にわか ) に青々とした若葉に降りそそいだりした。午後三時頃の ( だる ) い眠に襲われて、日影の薄い部屋に、うつらうつらしていた 頭脳 ( あたま ) が急にせいせいして来て、お島は 手摺 ( てすり ) ぎわへ出て、美しい 雨脚 ( あまあし ) を眺めていた。 ( ) しつけられていたような心が、 ( はね ) あがるように目ざめて来た。