三
然
(
しか
)
し時がたつに従って、その時の事実の真相が少しずつお島の心に
沁込
(
しみこ
)
むようになって来た。養家の
旧
(
もと
)
を聞知っている学校友達などから、ちょいちょい聞くともなし
聞齧
(
ききかじ
)
ったところによると、六部はその晩急病のために
其処
(
そこ
)
で落命したのであった。そして死んだ彼の
懐
(
ふとこ
)
ろに、小判の入った重い財布があった。それをそっくり養父母は自分の
有
(
もの
)
にして
了
(
しま
)
ったと云うのであった。お島はその説の方に、より多く真実らしいところがあると考えたが、
矢張
(
やっぱり
)
好い気持がしなかった。
「言いたがるものには、何とでも言わしておくさ。お金ができると何とかかとか言いたがるものなのだよ」
お島がその事を、
私
(
そっ
)
と養母に
糺
(
ただ
)
したとき、彼女はそう言って苦笑していたが、養父母に対する彼女のこれまでの心持は、段々裏切られて来た。自分の幸福にさえ黒い
汚点
(
しみ
)
が出来たように思われた。そしてそれからと云うもの、出来るだけ養父母の秘密と、心の傷を
劬
(
いたわ
)
りかばうようにと
力
(
つと
)
めたが、どうかすると親たちから
疎
(
うと
)
まれ
憚
(
はばか
)
られているような気がさしてならなかった。
六部の泊ったと云う、仏壇のある寂しい部屋を、お島は
夜
(
よる
)
厠
(
かわや
)
への
往来
(
ゆきき
)
に必ず通らなければならなかった。そこは畳の
凸凹
(
でこぼこ
)
した、昼でも日の光の通わないような薄暗い八畳であった。夫婦はそこから一段高い次の部屋に寝ていたが、お島は大きくなってからは
大抵
(
たいてい
)
勝手に近い六畳の
納戸
(
なんど
)
に
寝
(
ねか
)
されていた。お島はその八畳を通る
度
(
たんび
)
に、そこに財布を懐ろにしたまま死んでいる六部の
蒼白
(
あおじろ
)
い顔や姿が、まざまざ見えるような気がして、身うちが
慄然
(
ぞっ
)
とするような事があった。夜はいつでも宵の口から
臥床
(
ふしど
)
に入ることにしている父親の寝言などが、ふと
寝覚
(
ねざめ
)
の耳へ入ったりすると、それが不幸な旅客の亡霊か何ぞに
魘
(
うな
)
されている
苦悶
(
くもん
)
の声ではないかと疑われた。
陽気のぽかぽかする春先などでも
家
(
うち
)
のなかには始終湿っぽく、陰惨な空気が
籠
(
こも
)
っているように思えた。そして終日庭むきの部屋で針をもっていると、
頭脳
(
あたま
)
がのうのうして、寿命がちぢまるような
鬱陶
(
うっとう
)
しさを感じた。お島は
糸屑
(
いとくず
)
を払いおとして、裏の方にある
紙漉場
(
かみすきば
)
の方へ急いで出ていった。
薮畳
(
やぶだたみ
)
を控えた広い平地にある紙漉場の
葭簀
(
よしず
)
に、温かい日がさして、
楮
(
かぞ
)
を浸すために
盈々
(
なみなみ
)
と
湛
(
たた
)
えられた水が
生暖
(
なまあたた
)
かくぬるんでいた。そこらには桜がもう咲きかけていた。板に張られた紙が沢山日に干されてあった。この商売も、この三四年近辺に製紙工場が出来などしてからは、早晩
罷
(
や
)
めてしまうつもりで、養父は余り身を入れぬようになった。今は職人の数も少かった。そして幾分不用になった
空地
(
あきち
)
は庭に作られて、
洒落
(
しゃれ
)
た
枝折門
(
しおりもん
)
などが
営
(
しつら
)
われ、石や庭木が多く植え込まれた。
住居
(
すまい
)
の方もあちこち手入をされた。養父は二三年そんな事にかかっていたが、今は単にそればかりでなく、抵当流れになったような家屋敷も
外
(
ほか
)
に二三箇所はあるらしかった。けれど養父母はお島に詳しいことを話さなかった。
「貧乏くさい商売だね」お島は自分の
稚
(
ちいさ
)
い時分から居ずわりになっている男に声かけた。その男は楮の煮らるる釜の下の火を見ながら、
跪坐
(
しゃが
)
んで
莨
(
たばこ
)
を
喫
(
す
)
っていた。
顎髯
(
あごひげ
)
の伸びた蒼白い顔は、明い春先になると、一層貧相らしくみえた。
「お前さんの紙漉も久しいもんだね」
「駄目だよ。
旦那
(
だんな
)
が気がないから」
作
(
さく
)
と云うその男は
俛
(
うつむ
)
いたまま答えた。「もう楮のなかから小判の出て来る
気遣
(
きづかい
)
もないからね」
「
真実
(
ほんとう
)
だ」お島は
鼻頭
(
はなのさき
)
で笑った。