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  ( しか ) し時がたつに従って、その時の事実の真相が少しずつお島の心に 沁込 ( しみこ ) むようになって来た。養家の ( もと ) を聞知っている学校友達などから、ちょいちょい聞くともなし 聞齧 ( ききかじ ) ったところによると、六部はその晩急病のために 其処 ( そこ ) で落命したのであった。そして死んだ彼の ( ふとこ ) ろに、小判の入った重い財布があった。それをそっくり養父母は自分の ( もの ) にして ( しま ) ったと云うのであった。お島はその説の方に、より多く真実らしいところがあると考えたが、 矢張 ( やっぱり ) 好い気持がしなかった。

「言いたがるものには、何とでも言わしておくさ。お金ができると何とかかとか言いたがるものなのだよ」

 お島がその事を、 ( そっ ) と養母に ( ただ ) したとき、彼女はそう言って苦笑していたが、養父母に対する彼女のこれまでの心持は、段々裏切られて来た。自分の幸福にさえ黒い 汚点 ( しみ ) が出来たように思われた。そしてそれからと云うもの、出来るだけ養父母の秘密と、心の傷を ( いたわ ) りかばうようにと ( つと ) めたが、どうかすると親たちから ( うと ) まれ ( はばか ) られているような気がさしてならなかった。

 六部の泊ったと云う、仏壇のある寂しい部屋を、お島は ( よる ) ( かわや ) への 往来 ( ゆきき ) に必ず通らなければならなかった。そこは畳の 凸凹 ( でこぼこ ) した、昼でも日の光の通わないような薄暗い八畳であった。夫婦はそこから一段高い次の部屋に寝ていたが、お島は大きくなってからは 大抵 ( たいてい ) 勝手に近い六畳の 納戸 ( なんど ) ( ねか ) されていた。お島はその八畳を通る ( たんび ) に、そこに財布を懐ろにしたまま死んでいる六部の 蒼白 ( あおじろ ) い顔や姿が、まざまざ見えるような気がして、身うちが 慄然 ( ぞっ ) とするような事があった。夜はいつでも宵の口から 臥床 ( ふしど ) に入ることにしている父親の寝言などが、ふと 寝覚 ( ねざめ ) の耳へ入ったりすると、それが不幸な旅客の亡霊か何ぞに ( うな ) されている 苦悶 ( くもん ) の声ではないかと疑われた。

 陽気のぽかぽかする春先などでも ( うち ) のなかには始終湿っぽく、陰惨な空気が ( こも ) っているように思えた。そして終日庭むきの部屋で針をもっていると、 頭脳 ( あたま ) がのうのうして、寿命がちぢまるような 鬱陶 ( うっとう ) しさを感じた。お島は 糸屑 ( いとくず ) を払いおとして、裏の方にある 紙漉場 ( かみすきば ) の方へ急いで出ていった。

  薮畳 ( やぶだたみ ) を控えた広い平地にある紙漉場の 葭簀 ( よしず ) に、温かい日がさして、 ( かぞ ) を浸すために 盈々 ( なみなみ ) ( たた ) えられた水が 生暖 ( なまあたた ) かくぬるんでいた。そこらには桜がもう咲きかけていた。板に張られた紙が沢山日に干されてあった。この商売も、この三四年近辺に製紙工場が出来などしてからは、早晩 ( ) めてしまうつもりで、養父は余り身を入れぬようになった。今は職人の数も少かった。そして幾分不用になった 空地 ( あきち ) は庭に作られて、 洒落 ( しゃれ ) 枝折門 ( しおりもん ) などが ( しつら ) われ、石や庭木が多く植え込まれた。 住居 ( すまい ) の方もあちこち手入をされた。養父は二三年そんな事にかかっていたが、今は単にそればかりでなく、抵当流れになったような家屋敷も ( ほか ) に二三箇所はあるらしかった。けれど養父母はお島に詳しいことを話さなかった。

「貧乏くさい商売だね」お島は自分の ( ちいさ ) い時分から居ずわりになっている男に声かけた。その男は楮の煮らるる釜の下の火を見ながら、 跪坐 ( しゃが ) んで ( たばこ ) ( ) っていた。

  顎髯 ( あごひげ ) の伸びた蒼白い顔は、明い春先になると、一層貧相らしくみえた。

「お前さんの紙漉も久しいもんだね」

「駄目だよ。 旦那 ( だんな ) が気がないから」 ( さく ) と云うその男は ( うつむ ) いたまま答えた。「もう楮のなかから小判の出て来る 気遣 ( きづかい ) もないからね」

真実 ( ほんとう ) だ」お島は 鼻頭 ( はなのさき ) で笑った。