六十三
客から註文のセルやネルの
単衣物
(
ひとえもの
)
の仕立などを、ちょいちょい頼みに来て、伯母と親しくしていたところから、時にはお島の坐っている
裁物板
(
たちものいた
)
の側へも来て、寝そべって
戯談
(
じょうだん
)
を言合ったりしていた小野田と云う若い裁縫師と一緒に、お島が始めて自分自身の心と力を
打籠
(
うちこ
)
めて働けるような仕事に取着こうと思い立ったのは、その頃初まった外国との戦争が、
忙
(
いそが
)
しいそれ等の人々の手に、色々の仕事を供給している
最中
(
さなか
)
であった。
自分の仕事に思うさま働いてみたい――奴隷のようなこれまでの
境界
(
きょうがい
)
に、盲動と屈従とを
強
(
し
)
いられて来た彼女の心に、そうした欲望の目覚めて来たのは、一度山から出て来て、お島をたずねてくれた浜屋の主人と別れた頃からであった。
東京へ帰ってからのお島から、時々葉書などを受取っていた浜屋の主人は、菊の花の咲く時分に、ふいと出て来てお島のところを尋ねあてて来たのであったが、二日三日
逗留
(
とうりゅう
)
している間に、お島は浅草や芝居や
寄席
(
よせ
)
へ一緒に遊びに行ったり、上野近くに取っていたその宿へ寄って見たりした。
浜屋は近頃、以前のように帳場に坐ってばかりもいられなかった。そして
鉱山
(
やま
)
の
売買
(
うりかい
)
などに手を出していたところから、近まわりを
其方
(
そっち
)
こっち旅をしたりして暮していたが、東京へ来たのもそんな仕事の用事であった。
「気を長くして待っていておくれ。そのうち一つ当れば、お島さんだってそのままにしておきゃしない」
彼は今でもお島をT――
市
(
まち
)
の方へつれていって、そこで何等かの水商売をさせて、囲っておく気でいるらしかった。
「今更あの山のなかへなぞ行って暮せるもんですか。お妾さんなんか厭なこった」お島はそう言って笑って別れたのであった。
男は少しばかりの
小遣
(
こづかい
)
をくれて、
停車場
(
ステーション
)
まで送ってくれた女に、冬にはまた出て来る機会のあることを約束して、立っていった。
東京で思いがけなく男に逢えたお島は、二三日の
放肆
(
ほしいまま
)
な遊びに疲れた
頭脳
(
あたま
)
に、浜屋のことと、若い裁縫師のこととを、一緒に考えながら、ぼんやり停車場を出て来た。