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八十八

  上海 ( シャンハイ ) へ行くつもりで、N――市へ立つ前に、一度 顔出 ( かおだし ) したことのある自分の 生家 ( さと ) の方へ、小野田がお島を勧めて、贈物などを持って、 ( あらた ) めて一緒に訪ねて行ってから、続いて一人でちょいちょい 両親 ( ふたおや ) 機嫌 ( きげん ) を取りに行ったりしていた。

「これだけの地面は私の分にすると、御父さんが言うんですけれどね」

 最初二人で行ったとき、お島は庭木のどっさり ( うわ ) っている母屋の方の庭から、附近に散かっている二三箇所の持地を、小野田と一緒に見廻りながら、五百坪ばかりの細長い地所へ小野田を連れて行って言った。

 雑木の 生茂 ( おいしげ ) っているその地所には、庭へ持出せるような木も可也にあった。暗い 竹藪 ( たけやぶ ) や荒れた畑地もあった。 周囲 ( まわり ) には新しい ( いえ ) が二三軒建っていた。

「ふむ」小野田は驚異の目を ( みは )

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って、その木立のなかへ入って行った。夏草の生茂った木立の奥は、地面がじめじめしていて、日の光のとどかぬような所もあった。

「この辺の地所は坪どのくらいのものだろう」

 小野田はそこを出てお島の傍へ来ると、打算的の目を 耀 ( かがや ) かして ( たず ) ねた。

「どの位だかね。今じゃ十円もするでしょうよ」

 お島は ( とぼ )

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けたような顔で ( こた ) えたが、この地面が自分の ( もの ) になろうとは思えなかった。

  生家 ( さと ) では二三年のあいだ家を離れて、 其方 ( そっち ) こっち放浪して歩いていた兄が、 情婦 ( おんな ) 死訣 ( しにわか ) れて、最近にいた千葉の方から帰って来ていた。一時 生家 ( さと ) へ還っていた嫁も、その子供をつれて、久振で 良人 ( おっと ) と一緒に暮していた。兄は一時悪い病に ( かか ) ってから、めっきり健康が衰え、お島と山で世帯を持っていた頃の元気もなくなっていた。お島はあの頃の山の生活と、二三度そこで 交際 ( つきあ ) った兄の 情婦 ( おんな ) の身のうえなどを想い出させられた。悪い病気にかかったというその情婦は、どこへ行っても兄に 附絡 ( つきまと ) われていて、好いこともなくて旅で死んでしまった。その時は、何の気もなしに傍観していた二人の 情交 ( なか ) や心持が、お島にはいくらか解るように思えて来たが、どこが好くて、あの女がそんなに男のために苦労したかが ( いぶ ) かられた。

「あの時は、兄さんはほんとに私をひどい目に逢わしたね」

 お島は長いあいだの経過を考えて、何の温かみも感ずることのできない ( ほしいま ) まな兄との接触に、失望したように言出した。

 兄はその頃のことは想い出しもしないような顔をしていた。お島たちの寄ついて来ることを、余り悦んでもいないらしかった。

「あれはああ云う男です。人が悪いっていうんでもないけれど、人情はないんですね」

「早くあの地面を自分のものに書きかえておくようにしなくちゃ駄目だよ」

 小野田は、お島の 投遣 ( なげやり ) なのを ( もどか ) しそうに言った。

「あの地面も、今はどうなっているんだか。あの 御母 ( おっか ) さんの生きているうちは、まあ私の手にはわたらないね」

「それもお前が下手だからだよ」

 小野田はそう言いながら、望みありげに家へ入って来た。