五十八
父親は奥へも通らず、大きい柱時計や体量器の据えつけてある上り口のところに、行儀よく
居住
(
いずま
)
って、お島の小さい時分から覚えている持古しの火の用心で
莨
(
たばこ
)
をふかしていたが、お島や浜屋にしつこく言われて、
漸
(
やっ
)
と勝手元近い下座敷の一つへ通った。
「よくいらっしゃいましたね」お島は父親の顔を見た時から、胸が一杯になって来たが、空々しいような
辞
(
ことば
)
をかけて、茶をいれたり菓子を持って来たりして、何か言出しそうにしている父親の傍に、じっと坐ってなぞいなかった。
「私のことなら、そんな心配なんかして、わざわざ来て下さらなくとも
可
(
よ
)
かったのに。でも折角来た
序
(
ついで
)
ですから、お湯にでも入って、ゆっくり遊んで行ったら
可
(
い
)
いでしょう」
「なにそうもしていられねえ。日帰りで帰るつもりでやって来たんだから」父親も落着のない顔をして、腰にさした莨入をまた取出した。
「お前の体が、たといどういうことになっていようとも、
恁
(
こ
)
うやって
己
(
おれ
)
が来た以上は、引張って行かなくちゃならない」
「どういう風にもなってやしませんよ」と、お島は笑っていたが、父親の
口吻
(
くちぶり
)
によると、彼はお島の最初の手紙によって、てっきり兄のために体を売られて、ここに沈んでいるものと思っていた。そして東京では母親も姉も、それを信じているらしかった。
それで父親は、今日のうちにも話をつけて、払うべき借金は綺麗に払って、連れて帰ろうと主張するのであった。
お島はその問題には、なるべく触れないようにして、父親の酒の酌をしたり、夕飯の給仕をしたりすると、奥の部屋に寝転んでいる浜屋の主人のところへ来て、自分の身のうえについて、密談に
※
(
とき
)
を移していたが、お島を返すとも返さぬとも決しかねて、夜になってしまった。
「人の
妾
(
めかけ
)
なぞ私死んだって出来やしない。そんな事を
聴
(
きか
)
したら、あの堅気な人が何を言って怒るかしれやしない」
浜屋が自分で、
直
(
じか
)
に父親に話をして、当分のうちどこかに囲っておこうと言出したときに、お島はそれを拒んで言った。そうすれば、精米所の主人に、
内密
(
ないしょ
)
で金を出してもらって、T――市の方で、何かお島にできるような商売をさせようと云うのが、浜屋の考えつめた
果
(
はて
)
の
言条
(
いいじょう
)
であった。春の頃から、東京から取寄せた薬が利きだしたといって、この頃いくらか好い方へ向いて来たところから、近いうち戻って来ることになっている嫁のことをも、彼は考えない訳に行かなかった。そしてそれが一層男の方へお島の心を
粘
(
へばり
)
つかせていった。
奥まった小さい部屋から、二人の話声が、夜更までぼそぼそ聞えていた。
その夜なかから降り出した雨が、暁になるとからりと
霽
(
はれ
)
あがった。そしてお島が起出した頃には、父親はもうきちんと着物を着て、今にも立ちそうな顔をして、莨をふかしていた。