University of Virginia Library

Search this document 

 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
 30. 
 31. 
 32. 
 33. 
 34. 
 35. 
 36. 
 37. 
 38. 
 39. 
 40. 
 41. 
 42. 
 43. 
 44. 
 45. 
 46. 
 47. 
 48. 
 49. 
 50. 
 51. 
 52. 
 53. 
 54. 
 55. 
 56. 
 57. 
 58. 
五十八
 59. 
 60. 
 61. 
 62. 
 63. 
 64. 
 65. 
 66. 
 67. 
 68. 
 69. 
 70. 
 71. 
 72. 
 73. 
 74. 
 75. 
 76. 
 77. 
 78. 
 79. 
 80. 
 81. 
 82. 
 83. 
 84. 
 85. 
 86. 
 87. 
 88. 
 89. 
 90. 
 91. 
 92. 
 93. 
 94. 
 95. 
 96. 
 97. 
 98. 
 99. 
 100. 
 101. 
 102. 
 103. 
 104. 
 105. 
 106. 
 107. 
 108. 
 109. 
 110. 
 111. 
 112. 
 113. 
  

  

五十八

 父親は奥へも通らず、大きい柱時計や体量器の据えつけてある上り口のところに、行儀よく 居住 ( いずま ) って、お島の小さい時分から覚えている持古しの火の用心で ( たばこ ) をふかしていたが、お島や浜屋にしつこく言われて、 ( やっ ) と勝手元近い下座敷の一つへ通った。

「よくいらっしゃいましたね」お島は父親の顔を見た時から、胸が一杯になって来たが、空々しいような ( ことば ) をかけて、茶をいれたり菓子を持って来たりして、何か言出しそうにしている父親の傍に、じっと坐ってなぞいなかった。

「私のことなら、そんな心配なんかして、わざわざ来て下さらなくとも ( ) かったのに。でも折角来た ( ついで ) ですから、お湯にでも入って、ゆっくり遊んで行ったら ( ) いでしょう」

「なにそうもしていられねえ。日帰りで帰るつもりでやって来たんだから」父親も落着のない顔をして、腰にさした莨入をまた取出した。

「お前の体が、たといどういうことになっていようとも、 ( ) うやって ( おれ ) が来た以上は、引張って行かなくちゃならない」

「どういう風にもなってやしませんよ」と、お島は笑っていたが、父親の 口吻 ( くちぶり ) によると、彼はお島の最初の手紙によって、てっきり兄のために体を売られて、ここに沈んでいるものと思っていた。そして東京では母親も姉も、それを信じているらしかった。

 それで父親は、今日のうちにも話をつけて、払うべき借金は綺麗に払って、連れて帰ろうと主張するのであった。

 お島はその問題には、なるべく触れないようにして、父親の酒の酌をしたり、夕飯の給仕をしたりすると、奥の部屋に寝転んでいる浜屋の主人のところへ来て、自分の身のうえについて、密談に ( とき )

[_]
[21]
を移していたが、お島を返すとも返さぬとも決しかねて、夜になってしまった。

「人の ( めかけ ) なぞ私死んだって出来やしない。そんな事を ( きか ) したら、あの堅気な人が何を言って怒るかしれやしない」

 浜屋が自分で、 ( じか ) に父親に話をして、当分のうちどこかに囲っておこうと言出したときに、お島はそれを拒んで言った。そうすれば、精米所の主人に、 内密 ( ないしょ ) で金を出してもらって、T――市の方で、何かお島にできるような商売をさせようと云うのが、浜屋の考えつめた ( はて ) 言条 ( いいじょう ) であった。春の頃から、東京から取寄せた薬が利きだしたといって、この頃いくらか好い方へ向いて来たところから、近いうち戻って来ることになっている嫁のことをも、彼は考えない訳に行かなかった。そしてそれが一層男の方へお島の心を ( へばり ) つかせていった。

 奥まった小さい部屋から、二人の話声が、夜更までぼそぼそ聞えていた。

 その夜なかから降り出した雨が、暁になるとからりと ( はれ ) あがった。そしてお島が起出した頃には、父親はもうきちんと着物を着て、今にも立ちそうな顔をして、莨をふかしていた。