九十一
五六箇月の間に、そこの
仮店
(
かりみせ
)
で夫婦が稼ぎ得た収入が二千円近くもあったところから、狭苦しい三畳にもいられなかった二人が、根津の方へ店を張ることになってからも、外の活動に一層の興味を感じて来たお島は、時々その事について、親しい友達に秘密な自分の疑いを
質
(
ただ
)
しなどしたが、それをどうすることもできずに、忙しいその日その日を紛らされていた。
生理的の
不権衡
(
ふけんこう
)
から来るらしい圧迫と、失望とを感ずるごとに、お島は鶴さんや浜屋のことが、心に
蘇
(
よみが
)
えって来るのを感じた。
「成功したら、一度山へ行ってあの人にも逢ってみたい」
そんな秘密の願が、
気忙
(
きぜわ
)
しい
顧客
(
とくい
)
まわりに歩いている時の彼女の心に、どうかすると、或異常な歓楽でも期待され得るように思い浮かんだりした。一つは、妾になら
為
(
し
)
ておこうといったことのある、その男への
復讐心
(
ふくしゅうしん
)
から来る興味もあったが、現在の自分等夫婦には、欠けているらしい或要求と歓楽とに
憧
(
あこが
)
るる心とが、それを彼女に想像させるのであった。
一旦田舎へ引込んで、そこで思わしいことがなくて、この頃また東京へ来て、日本橋の方の或洋酒問屋にいるとか聞いた鶴さんのことをも、時々彼女は考えた。植源のおゆうが、鶴さんの迹を追って、家を出たりなどして、あの古い植木屋の家にも、
紛紜
(
いざこざ
)
の絶えなかった一頃の事情は、お島もこの頃姉の口などから
洩聞
(
もれき
)
いたが、その鶴さんにも、いつか何処かで逢う機会があるような気がしていた。
それに鶴さんや浜屋と、はっきりその人は
定
(
きま
)
っていないまでも、どこかに自分が
真実
(
ほんとう
)
に逢うことのできるような男が、小野田以外の周囲に、一人はあるような気がしないでもなかった。成功と活動とのみに飢え
渇
(
かつ
)
えているような荒いそして硬い彼女の心にも、そんな
憧憬
(
あこがれ
)
と不満とが、
沁出
(
しみだ
)
さずにはいなかった。
お島はそれからそれへと、
※縁
(
つて
)
を求めて知合いになった、自分と同じような或他の職業に働いている活動の女、独立の女、人妻になっている女などから聞される恋愛談などから、自分もやっぱり同じ女であることの暗示を得るような、秘密な渇望と幻想とに、思い浸ることがあったが、
動
(
と
)
もすると自分の目覚しい活動そのものすら、それらのぼんやりした影のような目的を追い求めているためですらないように思われたりした。
「お前さんは
真実
(
ほんとう
)
に好かんよ」
肉体の苦痛を
堪
(
た
)
え忍ばされたあとでは、そうした男に対する
反撥心
(
はんぱつしん
)
が、彼女の体中に
湧
(
わき
)
かえって来た。
根津へ引越して来てからも、小野田に妾を周旋するということを言出してから、急に
嫌
(
きら
)
いになった印判屋の上さんのところへ、お島はその時の自分の感情は、すっかり忘れてしまったもののように、ふと自分の苦痛を訴えに行くことすらあった。
「ほんとうに、あの人に妾を周旋してやって下さい。そうでもしなければ、私はとても自由な働きができません」
お島はそう言って、熱心に頼んだ。
「
笑談
(
じょうだん
)
でしょう。そんな事をしたら、それこそ大変でしょう」
上さんはお島の言うことが、
総
(
すべ
)
て虚構であるとしか思えなかった。