百三
時間割表などの刷込まれた、二つ折小形のその広告札を、
羅紗
(
らしゃ
)
の袋に入れて、お島は朝早く新入生などの多く
出入
(
ではいり
)
する学校の門の入口に立った。
「どうぞどっさりお持くださいまし。そして皆さん方へも、お拡めなすって下さいまし」お島はそう云って、それを彼等の手に渡した。
「
私
(
わたくし
)
どもでは皆さんの御便宜を図って、羅紗屋と特約を結んで、精々勉強いたしますから、どうぞ御贔屓に......スタイルも
極
(
ごく
)
斬新
(
ざんしん
)
でございます」彼女はそうも云って、面白そうに集ってくる若い人達の心を
惹着
(
ひきつ
)
けた。
「安いね」
「洋行がえりの洋服屋だとさ」
学生たちは口々に
私語
(
ささや
)
きあった。
「おいおい、引札を
撒
(
ま
)
くことは止めてもらおう。
此方
(
こちら
)
ではそれぞれ規定の洋服屋があるから」
門番や小使たちは、学生の手から校庭へ撒棄てられる引札を
煩
(
うるさ
)
がって、彼女を
逐攘
(
おいはら
)
おうとした。
お島は時とすると、
札
(
さつ
)
を二三枚ポケットから取出して、彼等の手に渡した。そして学校の事務員にまで取入ることを怠らなかった。
「品物を好くして、安く勉強すると云うなら、どこで拵えるのも同じだから、学生を勧誘するのも君の自由だがね」
事務員はそう云って、彼女の
出入
(
しゅつにゅう
)
に黙諾を与えてくれたりした。
広い運動場に集っている生徒のなかへ、お島の洋服姿が現れて行った。
時には一つの学校から、他の学校へ彼女は
腕車
(
くるま
)
を飛しなどして、せり込んで行く多くの同業者と
劇
(
はげ
)
しい競争を試みることに、深い興味を感じた。
小野田や職人たちが、まだぐっすり眠っているうちに、お島は床を離れて、
化粧
(
おつくり
)
をするために大きい姿見の前に立った。そして手ばしこくコルセットをはめたり、
漸
(
ようや
)
く着なれたペチコオトを着けたりした。洋服がすっかり体に
喰
(
く
)
っついて、ぽちゃぽちゃした肉を締つけられるようなのが、心持よかった。そして
小
(
ちいさ
)
いしなやかな足に、
踵
(
かかと
)
の高い靴をはくと、
自然
(
ひとりで
)
に軽く手足に弾力が出て来て、前へはずむようであった。ぞべらぞべらした日本服や、ぎごちない丸髷姿では、とても入って行けない場所へ、彼女の心は、何の
羞恥
(
しゅうち
)
も
億劫
(
おっくう
)
さも感ずることなしに、自由に飛込んで行くことができた。
朝おきると、
懈
(
だる
)
い彼女の体が、
直
(
じき
)
にそれらの軽快な服装を要求した。不思議なほど気持の引締ってくるのを覚えた。朝露にまだしっとりとしているような通りを、お島は一朝でも、洋服で出て行かない日があると、一日気分が悪かった。
自転車で納めものを運んで行く小野田が、どうかすると途中で彼女の側へ寄って来た。
「惜い事には
丈
(
たけ
)
が足りないね」
小野田は
胴幅
(
どうはば
)
などの広い彼女の姿を眺めながら言った。
「どうせ労働服ですもの、様子なんぞに
介意
(
かま
)
っていられるもんですか」
二人は暫く歩きながら話した。