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三十

  ( うららか ) な春らしい天気の続いた或日、鶴さんは一日 ( つぶ ) してお島と一緒に、 媒介 ( なこうど ) の植源などへ礼まわりをして、それからお島の 生家 ( さと ) の方へも往ってみようかと言出した。同じ鑵詰屋を出している、 ( せん ) ( かみ ) さんの義理の弟――先代の ( めかけ ) とも ( はした ) とも知れないような或女に出来た子供――のいる四谷の方へもお島は顔出しをしなければならないように言われていたが、それはもう商売上の用事で、二度も尋ねて来たりして、大概その様子がわかっていたが、鶴さんはそのお袋が気に ( ) わぬといって、後廻しにすることにした。

 お島はこの頃 ( ようや ) く落着いて来た丸髷に、赤いのは、道具の大きい ( やや ) 強味 ( きつみ ) のある顔に移りが悪いというので、オレンジがかった色の 手絡 ( てがら ) をかけて、こってりと濃い 白粉 ( おしろい ) にいくらか 荒性 ( あれしょう ) の皮膚を ( ぬり ) つぶして、首だけ出来あがったところで、何を着て行こうかと思惑っていた。

 鶴さんは傍で、髷の型の大きすぎたり、化粧の野暮くさいのに、当惑そうな顔をしていたが、着物の ( がら ) も、鶴さんの気に入るような落着いたのは見当らなかった。

「かねのを少し出してごらん。お前に似合うのがあるかも知れない」

 鶴さんはそう言って、押入の用箪笥のなかから、じゃらじゃら ( かぎ ) を取出して、そこへ 投出 ( ほうりだ ) した。

「でも初めていくのに、そんな物を着てなぞ行かれるものですか」

「それもそうだな」と、鶴さんは ( さび ) しそうな顔をして笑っていた。

「それにおかねさんの思いに 取着 ( とっつ ) かれでもしちゃ大変だ」お島はそう言いながら、自分の箪笥のなかを ( ひっ ) くら返していた。

「でもどんな意気なものがあるんだか拝見しましょうか」

「何のかのと言っちゃ、四谷のお袋が大分持っていったからね」鶴さんは心からそのお袋を好かぬらしく言った。

「あの 慾張婆 ( よくばりばばあ ) め、これも ( すた ) れた ( がら ) だ、あれも 老人 ( としより ) じみてるといっちゃ、かねの生きてるうちから、ぽつぽつ運んでいたものさ」鶴さんはそう言いながら、さも惜しいことをしたように、舌打ばかりしていた。

 お島は錠をはずして、 抽斗 ( ひきだし ) を二つ三つぬいて、そっちこっち持あげて ( のぞ ) いていたが、お島の目には、まだそれがじみ

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すぎて、着てみたいと思うようなものは少かった。

「そんなに思いをかけてる人であるなら、みんなくれてお仕舞いなさいよ。その方がせいせいして、どんなに好いか知れやしない」お島は 蓮葉 ( はすっぱ ) に言って笑った。

戯談 ( じょうだん ) じゃない。くれるくらいなら古着屋へ売っちまう」

  ( ) ( かく ) 二人は初めて ( そろ ) って、外へ出てみた。鶴さんは先へ立って、近所隣をさっさと小半町も歩いてから 振顧 ( ふりかえ ) ったが、お島はクレーム色のパラソルに ( おもて ) を隠して、 長襦袢 ( ながじゅばん ) ( すそ ) をひらひらさせながら、足早に追ついて来た。外は漸くぽかぽかする風に、軽く砂がたって、いつの間にか芽ぐんで来た 柳条 ( やなぎのえだ ) が、たおやかに ( しな )

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っていた。お島は何となく胸を ( そそ ) られるようで、今までとは 全然 ( まるで ) ちがった明い世間へ出て来たような歓喜を感じていたが、良人の心持がまだ底の底から汲取れぬような不安と哀愁とが、時々心を曇らせた。今まで人に恵んだり、助力を与えたりしたことは、養父母の非難を買ったほどであったが、 ( ほこり ) と満足はあっても、心から愛しようと思おうとしたような人は、 一人 ( いちにん ) もなかった。 真実 ( ほんと ) に愛せられることも ( かつ ) てなかった。愛しようと思う鶴さんの心の奥には、まだおかねの亡霊が潜み ( わだか ) まっているようであった。鶴さんは、それはそれとして大事に秘めておいて、自身の生活の単なる 手助 ( てだすけ ) として、自分を迎えたのでしかないように思えた。 ( なら ) んで電車に乗ってからも、お島はそんなことを思っていた。