二十六
その晩は月は何処の
森
(
もり
)
の
端
(
は
)
にも見えなかった。深く
澄
(
すみ
)
わたった大気の底に、
銀梨地
(
ぎんなしじ
)
のような星影がちらちらして、
水藻
(
みずも
)
のような
蒼
(
あお
)
い
濛靄
(
もや
)
が、一面に地上から
這
(
はい
)
のぼっていた。思いがけない
足下
(
あしもと
)
に、濃い霧を立てて流れる水の音が、ちょろちょろと聞えたりした。お島はこの二三日、気が狂ったような心持で、有らん限りの力を振絞って、母親と闘って来た自分が、不思議なように考えられた。時々顔を上げて、彼女は
太息
(
といき
)
を
洩
(
もら
)
した。道が人気の絶えた薄暗い
木立際
(
こだちぎわ
)
へ入ったり、線路ぞいの高い
土堤
(
どて
)
の上へ出たりした。底にはレールがきらきらと光って、虫が芝生に
途断
(
とぎ
)
れ途断れに
啼立
(
なきた
)
っていた。青柳がいなければ、お島はそこに疲れた体を投出して、
独
(
ひとり
)
で何時までも心の限り泣いていたいとも考えた。
けれどお島は、長く青柳と一緒に歩いてもいなかった。松の下に、墓石や石地蔵などのちらほら立った丘のあたりへ来たとき、
先刻
(
さっき
)
からお島が
微
(
かすか
)
な予感に
怯
(
おび
)
えていた青柳の
気紛
(
きまぐ
)
れな思附が、到頭彼女の目の前に、実となって現われた。
「ちょッ......
笑談
(
じょうだん
)
でしょう」
道傍
(
みちばた
)
に
立竦
(
たちすく
)
んだお島は、
悪戯
(
いたずら
)
な男の手を振払って、笑いながら、さっさと歩きだした。
甘い
言
(
ことば
)
をかけながら、青柳はしばらく一緒に歩いた。
「御母さんに叱られますよ」お島は
軽
(
かろ
)
くあしらいながら歩いた。
「現にその御母さんがどうだと思う。だから、あの家のことは、一切
己
(
おれ
)
の
掌
(
て
)
のうちにあるんだ。ここで島ちゃんの籍をぬいて
了
(
しま
)
おうと、無事に収めようと、すべて己の自由になるんだよ」
威嚇
(
いかく
)
の
辞
(
ことば
)
と誘惑の手から
脱
(
のが
)
れて、絶望と憤怒に男をいら
立
(
だた
)
せながら、
旧
(
もと
)
の道へ
駈出
(
かけだ
)
すまでに、お島は
可也
(
かなり
)
悶※
(
もが
)
き争った。
直
(
じき
)
にお島は、息せき家へ駈つけて来た。そしていきなり父親の
寝室
(
ねま
)
へ入って行った。
「それが
真実
(
ほんとう
)
とすれあ、己にだって言分があるぞ」いつか眠についていた父親は、床のうえに起あがって、煙草を
喫
(
ふか
)
しながら考えていた。
「
彼奴
(
あいつ
)
はあんな奴ですよ。
畜生
(
ちきしょう
)
人を
見損
(
みそこな
)
っていやがるんだ」お島は乱れた髪を
掻
(
かき
)
あげながら、腹立しそうに言った。そして
興
(
はず
)
んだ調子で、現場の模様を誇張して話した。父の信用を
恢復
(
とりかえ
)
せそうなのと、母親に鼻を
明
(
あか
)
させるのが、
気色
(
きしょく
)
が好かった。