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八十
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八十

  其処 ( そこ ) をも散々 遣散 ( やりちら ) してN――市を引揚げて、どこへ落着く当もなしに、暑い或日の午後に新橋へ入って来たとき、二人の体には、一枚ずつ ( ) けたもののほか何一つすら著いていなかった。

 鼻息の荒いお島たちは、人の気風の温和でそして疑り深いN――市では、どこでも 無気味 ( ぶきみ ) がられて相手にされなかった。 一月二月 ( ひとつきふたつき ) 小野田の住込んでいた ( たな ) では、毎日のように 入浸 ( いりびた ) っていたお島は、平和の 攪乱者 ( こうらんしゃ ) か何ぞのように 忌嫌 ( いみきら ) われ、不謹慎な口の利き方や、 ( やり ) っぱなしな日常生活の 不検束 ( ふしだら ) さが、妹たち周囲の人々から、女雲助か何かのように ( はばか ) られた。著いて間もない時分の彼女から、東京風の髪をも結ってもらい、洗濯や針仕事にも働いてもらって、 頭髪 ( あたま ) のものや持物などを、惜気もなげにくれてもらったりしていた妹は、帯や下駄や時々の小遣いの 貸借 ( かしかり ) にも、彼女を警戒しなければならないことに気がついた。

「そんなに 吝々 ( けちけち ) しなさんなよ、今に儲けてどっさりお返ししますよ」

 それを断られたとき、お島はそう云って笑ったが、土地の人たちの腹の見えすいているようなのが腹立しかった。自分の腕と心持とが、全く誤解されているのも 業腹 ( ごうはら ) であった。

 小野田にも信用がなく、自分にも働き勝手の違ったような、その土地で、二人は日に日に上海行の計画を鈍らされて行った。二人は小野田が数日のあいだに働いて手にすることのできた、少しばかりの旅費を持って、 辛々 ( からがら ) そこを立ったのであった。

 一日込合う暑い客車の 瘟気 ( うんき ) ( ) みつかれた二人が、停車場の静かな広場へ吐出されたのは、夜ももう大分遅かった。

「どこへ行ったものだろうね」

 青い火や赤い火の流れている広告塔の前に立って、しっとりした夜の空気に ( よみが ) えったとき、お島はそこに 跪坐 ( しゃが ) んでいる小野田を促した。

  ( せん ) に働いていた川西という工場のことを、小野田は心に描いていたが、前借などの始末の ( やり ) っぱなしになっている其処へは行きたくなかった。上海行を吹聴したような人の方へは、どこへも姿を見せたくなかった。