八十一
不安な一夜を、芝口の或
安旅籠
(
やすはたご
)
に過して、翌日二人は川西へ身を寄せることになるまで、お島たちは口を捜すのに、暑い東京の町を一日
彷徨
(
ぶらつ
)
いていた。
最後に本郷の方を一二軒
猟
(
あさ
)
って、そこでも全く失望した二人が、疲れた足を休めるために、木蔭に飢えかつえた哀れな放浪者のように、
湯島
(
ゆしま
)
天神の境内へ慕い寄って来たのは、もうその日の暮方であった。
漸
(
ようよ
)
う日のかげりかけた境内の薄闇には、白い人の姿が、ベンチや
柵
(
さく
)
のほとりに多く集っていた。葉の黄ばみかかった桜や
銀杏
(
いちょう
)
の
梢
(
こずえ
)
ごしに見える、蒼い空を秋らしい雲の影が動いて、目の下には
薄闇
(
うすぐら
)
い町々の建物が、長い一夏の暑熱に倦み疲れたように
横
(
よこた
)
わっていた。二人は
仄暗
(
ほのぐら
)
い木蔭のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日に
焦
(
や
)
け疲れた二人の顔に心持よく
戦
(
そよ
)
いだ。
水のような蒼い夜の色が、段々
木立際
(
こだちぎわ
)
に這い拡がって行った。口も利かずに黙って腰かけているお島は、ふと女坂を
攀登
(
よじのぼ
)
って、石段の上の平地へ醜い姿を現す一人の
天刑病
(
てんけいびょう
)
らしい
躄
(
いざり
)
の乞食が目についたりした。
石段を登り切ったところで、哀れな乞食は、
陸
(
おか
)
の上へあがった
泥亀
(
どろがめ
)
のように、臆病らしく
四下
(
あたり
)
を見廻していたが、するうちまた這い歩きはじめた。そして今夜の宿泊所を求めるために、人影の全く絶えた、石段ぎわの小さい
祠
(
ほこら
)
の暗闇の方へいざり寄って行った。
「ちょっと御覧なさいよ」お島は小野田に声かけて
振顧
(
ふりむ
)
いた。
今まで莨を
喫
(
す
)
っていた小野田は、ベンチの
肱
(
ひじ
)
かけに
凭
(
もた
)
れかかっていつか眠っていた。
「この人は、為様がないじゃないの」お島は
跳
(
はね
)
あがるような声を出した。
「行きましょう行きましょう。こんな所にぐずぐずしていられやしない」お島は
慄
(
ふる
)
えあがるようにして小野田を
急立
(
せきた
)
てた。
二人は痛い足を
引摺
(
ひきず
)
って、またそこを動きだした。
「何でもいいから芝へ行きましょう。
恁
(
こ
)
うなれば見えも外聞もありゃしない」お島はそう言って
倦
(
う
)
み
憊
(
くたび
)
れた男を引立てた。
食物
(
たべもの
)
といっては、昼から
幾
(
ほと
)
んで
何をも取らない二人は、口も利けないほど
饑
(
う
)
え疲れていた。
川西の店へ立ったのは、その晩の九時頃であった。