六十一
汽車が
武蔵
(
むさし
)
の平野へ降りてくるにつれて、しっとりした空気や、広々と
夷
(
なだら
)
かな田畠や
矮林
(
わいりん
)
が、水から離れていた魚族の水に返されたような安易を感じさせたが、東京が
近
(
ちかづ
)
くにつれて、汽車の
駐
(
とど
)
まる駅々に、お島は自分の
生命
(
いのち
)
を縮められるような苦しさを感じた。
「このまま自分の
生家
(
うち
)
へも、姉の家へも寄りついて行きたくはない」お島は独りでそれを考えていた。
「何等かの運を自分の手で
切拓
(
きりひら
)
くまでは、植源や鶴さんや、以前の
都
(
すべ
)
ての知合にも顔を合したくない」と、お島はそうも思いつめた。
王子の
停車場
(
ステーション
)
へついたのは、もう晩方であったが、お島は
引摺
(
ひきず
)
られて行くような暗い心持で、やっぱり父親の
迹
(
あと
)
へついて行った。静かな町にはもう
明
(
あかり
)
がついて、山国に居なれた彼女の目には、何を見ても潤いと懐かしみとがあるように感ぜられた。
父親が、温泉場で目っけて根ぐるみ新聞に包んで持って来た
石楠花
(
しゃくなげ
)
や、土地名物の
羊羹
(
ようかん
)
などを提げて、家へ入って行ったとき、姉も自分の帰りを待うけてでもいたように、母親と一緒に茶の間にいた。もう三つになったその子供が歩き出しているのが、お島の目についた。
「へえ、暫く見ないまにもうこんなになったの」お島は無造作に挨拶をすますと、自分の傷ついた心の寄りつき場をでも見つけたように、いきなりその子供を
膝
(
ひざ
)
に抱取った。
「
寅坊
(
とらぼう
)
、このおばちゃんを覚えているかい。お前を可愛がったおばちゃんだよ」
羊羹の
片
(
きれ
)
を持たされた子供は、
直
(
じき
)
にお島に
懐
(
なつ
)
いた。
「何て色が黒くなったんだろう」姉はお島の山やけのした顔を眺めながら、
可笑
(
おかし
)
そうに言った。お島の様子の田舎じみて来たことが、鈍い姉にも住んでいた町のさまを想像させずにはおかなかった。
「一口に田舎々々と
非
(
くさ
)
すけれど、それあ好いところだよ」お島はわざと元気らしい調子で言出した。
「だって山のなかで、
為方
(
しかた
)
のないところだというじゃないか」
「私もそう思って行ったんだけれど、住んでみると大違いさ。温泉もあるし、町は綺麗だし、人間は親切だし、王子あたりじゃとても見られないような料理屋もあれば、芸者屋もありますよ。それこそ一度姉さんたちをつれていって見せたいようだよ」
「島ちゃんは、あっちで、なにかできたっていうじゃないか。だからその土地が好くなったのさ」
「嘘ですよ」お島は鼻で笑って、「こっちじゃ私のことを何とこそ言ってるか知れたもんじゃありゃしない。困って酌婦でもしていると思ってたでしょう。これでも町じゃ私も信用があったからね、土地に居つくつもりなら、商売の
金主
(
きんしゅ
)
をしてくれる人もあったのさ」
「へえ、そんな人がついたの」