三十一
奉公人などに酷だというので、植源いこうか
茨
(
ばら
)
脊負
(
しょ
)
うか、という
語
(
ことば
)
と共に、
界隈
(
かいわい
)
では古くから名前の響いたその植源は、お島の
生家
(
さと
)
などとは違って、
可也
(
かなり
)
派手な暮しをしていたが、今は有名な
喧
(
やかま
)
し
屋
(
や
)
の女隠居も年取ったので、家風はいくらか
弛
(
ゆる
)
んでいた。お島は一二度ここへ来たことはあったが、奥へ入ってみるのは、今日が初めであった。
大秀の娘である嫁のおゆうが、鶴さんの口にはゆうちゃんと呼れて、小僧時代からの
昵
(
なじ
)
みであることが、お島には何となし不快な感を与えたが、それもしみじみ顔を見るのは、初めてであった。
おゆうは、浮気ものだということを、お島は姉から聞いていたが、逢ってみると、芸事の
稽古
(
けいこ
)
などをした
故
(
せい
)
か、
嫻
(
しとや
)
かな落着いた女で、
生際
(
はえぎわ
)
の富士形になった額が狭く、
切
(
きれ
)
の長い目が細くて、口もやや大きい方であったが、薄皮出の細やかな膚の、くっきりした色白で、
小作
(
こづくり
)
な体の様子がいかにも好いと思った。いつも通るところとみえて、鶴さんは仕立物などを
散
(
ちら
)
かしたその部屋へいきなり入っていこうとしたが、おゆうは今日は
更
(
あらた
)
まったお客さまだから失礼だといって、座敷の床の前の方へ、お島のと並べてわざとらしく
座蒲団
(
ざぶとん
)
をしいてくれた。
「そう急に他人行儀にしなくても
可
(
い
)
いじゃありませんか」鶴さんは蒲団を少しずらかして坐った。
「いいじゃありませんか。もう
極
(
きまり
)
のわりいお年でもないでしょう」おゆうは顔を
赧
(
あから
)
めながら言って、二人を見比べた。
「
貴女
(
あなた
)
ちっとは落着きなさいましてすか」おゆうはお島の方へも
言
(
ことば
)
をかけた。
「何ですか、私はこういうがさつ
ものですから、
叱
(
しか
)
られてばかりおりますの」お島は
体
(
てい
)
よく
遇
(
あしら
)
っていた。
「でもあの辺は
可
(
よ
)
うございますのね、
周囲
(
まわり
)
がお
賑
(
にぎや
)
かで」おゆうはじろじろお島の髷の形などを見ながら自分の
髪
(
あたま
)
へも手をやっていた。
性急
(
せっかち
)
の鶴さんは、蒲団の上にじっとしてはおらず、縁側へ出てみたり、隠居の方へいったりしていたが、おゆうも落着きなくそわそわして、時々鶴さんの傍へいって、
燥
(
はしゃ
)
いだ笑声をたてていたりした。広い庭の方には、
薔薇
(
ばら
)
の大きな鉢が、温室の手前の方に幾十となく並んでいた。植木棚のうえには、紅や紫の花をつけている西洋草花が取出されてあった。
四阿屋
(
あずまや
)
の方には、遊覧の人の姿などが、働いている若い者に交ってちらほら見えていた。
「どうしよう、これからお前の家へまわっていると遅くなるが......」鶴さんは時計を見ながらお島に言った。「何なら一人でいっちゃどうだ」
「
不可
(
いけ
)
ませんよ、そんなことは......」おゆうはいれ替えて来たお茶を
注
(
つ
)
ぎながら言った。
それで鶴さんはまた一緒にそこを出ることになったが、お島は何だか張合がぬけていた。