三十二
日がそろそろかげり気味であったので、このうえ二三十町もある道を歩くことが、二人には何となし
気懈
(
けだる
)
い仕事のように思えた。鶴さんは植源へ来るのが今日の目的で、お島の
生家
(
さと
)
へ行ってみようと云う興味は、もうすっかり
殺
(
そ
)
げてしまったもののように、途中で幾度となく引返しそうな様子を見せたが、お島も自分が全く嫌われていないまでも、鶴さんの気持が自分と二人ぎりの時よりも、おゆうの前に居る時の方が、
話しの調子がはずむようなので、
古昵
(
ふるなじ
)
みのなかを見せつけにでも連れて来られたように思われて、腹立しかった。二人は初めほど
睦
(
むつ
)
み合っては歩けなくなった。
「でも
此処
(
ここ
)
まで来て寄らないといっちゃ、義理が悪いからね」
今度はお島が立寄るまいと言出したのを、鶴さんは何処か商人風の堅いところを見せて、すっかり気が変ったように言った。
「それ程にして戴かなくたって
可
(
い
)
いんですよ。あの人達は、親だか子だか、私なぞ何とも思っていませんよ。
生家
(
さと
)
は
生家
(
さと
)
で、縁も
由縁
(
ゆかり
)
もない家ですからね」お島はそう言いながら、
従
(
つ
)
いて行った。
生家
(
さと
)
では母親がいるきりであった。母親はお島の前では、初めて来た婿にも、
愛相
(
あいそ
)
らしい
辞
(
ことば
)
をかけることもできぬ程、お互に神経が
硬張
(
こわば
)
ったようであったが、鶴さんと二人きりになると、そんなでもなかった。お島は母親の口から、自分の悪口を言われるような気がして、ちょいちょい様子を見に来たが、鶴さんは植源にいた時とは
全然
(
まるで
)
様子がかわって、自分が先代に取立てられるまでになって来た気苦労や、病身な妻を控えて商売に励んで来た長いあいだの
身
(
み
)
の
上談
(
うえばなし
)
などを、例の
急々
(
せかせか
)
した調子で話していた。
「ここんとこで、一つ気をそろえて、みっちり稼がんことにゃ、この
恢復
(
とりかえし
)
がつきません」
鶴さんは傍へ寄って来るお島に気もつかぬ様子であったが、お島には、それがすっかり母親の気に入って了ったらしく見えた。
「どうか店の方へも、時々お遊びにおいで下すって......」
鶴さんは
語
(
ことば
)
のはずみで、そう言っていたが、お島は、何を言っているかと云うような気がして、
終
(
しまい
)
に
莫迦々々
(
ばかばか
)
しかった。それでけろりとした顔をして、外を見ていながら、時々帰りを促した。
「こう云う落着のない子ですから、お骨も折れましょうが、
厳
(
やかま
)
しく
仰
(
おっし
)
ゃって、どうか
駆使
(
こきつか
)
ってやって下さい」母親はじろりとお島を見ながら言った。
鶴さんは感激したような調子で、
弁
(
しゃべ
)
るだけのことを弁ると、
煙管
(
きせる
)
を筒に収めて帰りかけた。
「何を言っていたんです」お島は外へ出ると、いらいらしそうに言った。「あの御母さんに、商売のことなんか解るものですか。人間は牛馬のように
駆使
(
こきつか
)
いさえすれあ
可
(
い
)
いものだと思っている人間だもの」