二十九
結婚の翌日、新郎の鶴さんは朝早くから起出して、店で小僧と一緒に働いていた。昨夜
極
(
ごく
)
親しい少数の人たちを呼んで、二人が手軽な
祝言
(
しゅうげん
)
をすました手狭な二階の部屋には、まだ新郎の礼服がしまわれずにあったり、新婦の紋附や
長襦袢
(
ながじゅばん
)
が、
屏風
(
びょうぶ
)
の蔭に畳みかけたまま重ねられてあったりした。
蓬莱
(
ほうらい
)
を飾った床の間には、色々の祝物が秩序もなくおかれてあった。
客がみなお開きになってからも、それだけは新調したらしい黒羽二重の紋附をぬぐ間がなく、新郎の鶴さんは二度も店へ出て、戸締や何かを見まわったりしていたが、いつの間にか誰が延べたともしれぬ寝床の側に坐っているお島の側へ戻って来ると、いきなり自分の商売上のことや、財産の話を花嫁に
為
(
し
)
て聞せたりした。そして病院へ入れたり、海辺へやったりして手を尽して来た、
前
(
せん
)
の
上
(
かみ
)
さんの病気の療治に骨の折れたことや、金のかかった事をも
零
(
こぼ
)
した。先代の時から続いてやっている、確な人に委せて、監督させてある北海道の方へも、東京での販路拡張の
手隙
(
てすき
)
には、年に一度くらいは行ってみなければならぬことも話して聞かせた。そういう
時には、お島は店を預かって、しっかり
遣
(
や
)
ってくれなければならぬと云うので、多少そんなことに経験と技量のあるように聞いているお島に、望みを
措
(
お
)
いているらしかった。
部屋などの
取片着
(
とりかたづけ
)
をしているうちに、翌日一日は
直
(
じき
)
に経ってしまった。お島は時々
細
(
こまか
)
い
格子
(
こうし
)
のはまった二階の窓から、往来を眺めたり、向いの化粧品屋や下駄屋や
莫大小屋
(
メリヤスや
)
の店を見たりしていたが、
檻
(
おり
)
のような窮屈な二階に
竦
(
すく
)
んでばかりもいられなかった。それで
階下
(
した
)
へおりてみると、下は立込んだ
廂
(
ひさし
)
の
差交
(
さしかわ
)
したあいだから、やっと
微
(
かす
)
かな日影が
茶
(
ちゃ
)
の
室
(
ま
)
の方へ
洩
(
も
)
れているばかりで、そこにも荷物が沢山入れてあった。店には
厚司
(
あつし
)
を着た若いものなどが、帳場の前の方に腰かけていた。鶴さんがそこに坐って帳簿を見たり、新聞を読んだりしていた。お島はそこへ姿を現して、暫く坐ってみたがやっぱり落着がなかった。
二日三日と日がたって行った。お島は
頭髪
(
あたま
)
を
丸髷
(
まるまげ
)
に結って、少しは帳場格子のなかに坐ることにも馴れて来たが、鶴さんはどうかすると自転車で乗出して、半日の
余
(
よ
)
も外廻りをしていることがあった。そして夜は疲れて早くから二階の寝床へ入ったが、お島は段々日の暮れるのを待つようになって来た、自分の心が不思議に思えた。姉や植源の嫁が騒いでいるように、鶴さんがそんなに好い男なのかと、時々帳場格子のなかに坐っている
良人
(
おっと
)
の顔を眺めたり、独り居るときに、そんな思いを胸に
育
(
はぐく
)
み温めていたりして、自分の心が次第に良人の方へ
牽
(
ひき
)
つけられてゆくのを、感じないではいられなかった。