八十四
九時頃に小野田が外から帰って来たとき、
駭
(
おどろ
)
かされたお島の心は、まだ全く
鎮
(
しずま
)
らずにいた。人品や心の卑しげな川西に、いつでも誰にも動く女のように見られたのが
可恥
(
はずか
)
しく腹立しかった。
「へえ、私がそんな女に見えたんですかね。そんな事をしたら、あの物堅い父に私は何といわれるでしょう」
お島は
迹
(
あと
)
から
附絡
(
つきまと
)
って来る川西の兇暴な力に反抗しつつ、工場の
隅
(
すみ
)
に、
慄然
(
ぞっ
)
とするような体を縮めながらそう言って拒んだ。
髯
(
ひげ
)
の延びた長い
顎
(
あご
)
の、目の
落窪
(
おちくぼ
)
んだ川西の顔が、お島の目には
狂気
(
きちがい
)
じみて見えた。
「
可
(
い
)
けません可けません、私は大事の体です。これから出世しなくちゃなりません。信用を
墜
(
おと
)
しちゃ大変です」お島は片意地らしく
脅
(
おど
)
しつけるように言って、筋張った彼の手をきびしく
払退
(
はらいの
)
けた。
劇
(
はげ
)
しい争闘がしばらく続いた。
婉曲
(
えんきょく
)
としおらしさとを欠いた女の態度に、男の顔を
潰
(
つぶ
)
されたと云って、川西がぷりぷりして二階へあがって行ってから、お島は
腕節
(
うでぶし
)
の痛みをおさえながら、
勝矜
(
かちほこ
)
ったものの荒い不安を感じた。
暫
(
しばら
)
くすると、白粉をこてこて塗って、湯から帰って来たお秀が、腕を組んで、ぼんやり
店頭
(
みせさき
)
に
彳
(
たたず
)
んでいるお島に笑顔を見せて、奥へ通って行った。
「ぽんつくだな」お島はそう思いながら、女の顔を見返しもせずに黙っていた。何のことをも感づくことができずに、全く満足し切っているように鈍い、その癖どこかおどおどしている女の様子に、
妄
(
むやみ
)
に気がいらいらして、顔の筋肉一つすら素直に働かないのであった。
「小野田が帰ったら、今の始末を残らず
吩咐
(
いいつ
)
けよう。そして今からでも二人でここを出てやろう」
お島はそう思いながら、そこに立ったまま彼の帰りを待っていた。外は秋らしい
冷
(
ひやや
)
かな風が吹いて、往来を通る人の姿や、店屋々々の
明
(
あかり
)
が、厭に滅入って寂しく見えた。浜屋や鶴さんのことが、物悲しげに想い出されたりした。
その晩、小野田は二階でしばらく川西と何やら言合っていたが、やがて落着のない顔をして降りて来ると、店にいるお島の傍へ寄って来た。
「店が
閑
(
ひま
)
でとても置ききれないから、気の毒だけれど、己たちに今から出てくれというんだがね」
小野田は言出した。
「ふむ」お島はまだ神経が突っ張っていて、こまこました話をする気にはなれなかった。
「
己
(
おれ
)
たちが自分の仕事をするので、それも気に
加
(
くわ
)
んらしい」
「どうせそうだろうよ」お島は荒い調子で
冷笑
(
あざわら
)
った。
「出ましょう出ましょう。言われなくたって、
此方
(
こっち
)
から出ようと思っていたところだ」