University of Virginia Library

Search this document 

 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
 30. 
 31. 
 32. 
 33. 
 34. 
 35. 
 36. 
 37. 
 38. 
三十八
 39. 
 40. 
 41. 
 42. 
 43. 
 44. 
 45. 
 46. 
 47. 
 48. 
 49. 
 50. 
 51. 
 52. 
 53. 
 54. 
 55. 
 56. 
 57. 
 58. 
 59. 
 60. 
 61. 
 62. 
 63. 
 64. 
 65. 
 66. 
 67. 
 68. 
 69. 
 70. 
 71. 
 72. 
 73. 
 74. 
 75. 
 76. 
 77. 
 78. 
 79. 
 80. 
 81. 
 82. 
 83. 
 84. 
 85. 
 86. 
 87. 
 88. 
 89. 
 90. 
 91. 
 92. 
 93. 
 94. 
 95. 
 96. 
 97. 
 98. 
 99. 
 100. 
 101. 
 102. 
 103. 
 104. 
 105. 
 106. 
 107. 
 108. 
 109. 
 110. 
 111. 
 112. 
 113. 
  

  

三十八

 姉の家へ引取られてからも、お島の口にはまだ鶴さんの 悪口 ( あっこう ) が絶えなかった。おゆうに 庇護 ( かば ) われている男の心が、 歯痒 ( はがゆ ) かったり、 ( ねた ) ましく思われたりした。男を 我有 ( わがもの ) にしているようなおゆうの手から、男を取返さなければ、気がすまぬような不安を感じた。

 お島は仕事から帰った姉の亭主が晩酌の ( ぜん ) に向っている傍で、姉と一緒に晩飯の ( はし ) を取っていたが、心は鶴さんとおゆうの側にあった。

「そうそう、こんな事しちゃいられないのだっけ。店のものが ( みん ) な私を待っているでしょう」お島は 蚊帳 ( かや ) のなかで子供を ( ねか ) しつけている、姉の枕元で想出したように言出した。

良人 ( うち ) はあんなだし、私でもいなかった日には、一日だって店が立行きませんよ」

「今度あばれちゃ駄目よ」姉は出てゆくお島を送出しながら言った。

「どうもお騒がせして相済みません」お島は何のこともなかったような顔をして、外へ出たが、鶴さんがまだ植源にいるような気がして、素直に家へ帰る気にはなれなかった。

 外はすっかり暮れてしまって、茶の木畑や 山茶花 ( さざんか ) などの木立の多い、その 界隈 ( かいわい ) 閑寂 ( ひっそり ) していた。お島の足は 惹寄 ( ひきよ ) せられるように、植源の方へ歩いていった。「鶴さんも可哀そうよ」そう言ってお島を ( たしな ) めたおゆうの目顔が、まだ目についていた。北海道の女よりも、 稚馴染 ( おさななじみ ) のおゆうの方に、暗い多くの疑がかかっていた。

 大きな石の門のうえに、植源と出ている 軒燈 ( けんとう ) の下に突立って、やがてお島は家の方の 気勢 ( けはい ) に神経を澄したが、石を敷つめた門のうちの両側に、枝を差交した木陰から見える玄関には、 灯影 ( ほかげ ) 一つ洩れていなかった。お島は ( かなめ )

[_]
[13]
( けやき ) の木とで、二重になっている 外囲 ( そとがこい ) ( まわり ) を、 其方 ( そっち ) こっち廻ってみたが、何のこともなかった。

 車で家へ帰ったのは、大分おそかった。

「お帰んなさい」

 店のもの二三人に声をかけられながら、車から降りると、奥の方の帳場に坐っている鶴さんの顔が、ちらと見えたので、お島は ( やっ ) と胸一杯に安心と 歓喜 ( よろこび ) との ( あふ ) れて来るのを感じたが、 矢張 ( やっぱり ) 声をかける気になれなかった。

 上ってみると、二階は出ていった時、取散していったままであった。 脱棄 ( ぬぎすて ) 投出 ( ほうりだ ) してあったり、 ( おお ) いをとられたままの 箪笥 ( たんす ) の上の鏡に、疲れた自分の顔が映ったりした。お島はその前に立って、物足りぬ思いに暫くぼんやりしていた。