三十八
姉の家へ引取られてからも、お島の口にはまだ鶴さんの
悪口
(
あっこう
)
が絶えなかった。おゆうに
庇護
(
かば
)
われている男の心が、
歯痒
(
はがゆ
)
かったり、
妬
(
ねた
)
ましく思われたりした。男を
我有
(
わがもの
)
にしているようなおゆうの手から、男を取返さなければ、気がすまぬような不安を感じた。
お島は仕事から帰った姉の亭主が晩酌の
膳
(
ぜん
)
に向っている傍で、姉と一緒に晩飯の
箸
(
はし
)
を取っていたが、心は鶴さんとおゆうの側にあった。
「そうそう、こんな事しちゃいられないのだっけ。店のものが
皆
(
みん
)
な私を待っているでしょう」お島は
蚊帳
(
かや
)
のなかで子供を
寝
(
ねか
)
しつけている、姉の枕元で想出したように言出した。
「
良人
(
うち
)
はあんなだし、私でもいなかった日には、一日だって店が立行きませんよ」
「今度あばれちゃ駄目よ」姉は出てゆくお島を送出しながら言った。
「どうもお騒がせして相済みません」お島は何のこともなかったような顔をして、外へ出たが、鶴さんがまだ植源にいるような気がして、素直に家へ帰る気にはなれなかった。
外はすっかり暮れてしまって、茶の木畑や
山茶花
(
さざんか
)
などの木立の多い、その
界隈
(
かいわい
)
は
閑寂
(
ひっそり
)
していた。お島の足は
惹寄
(
ひきよ
)
せられるように、植源の方へ歩いていった。「鶴さんも可哀そうよ」そう言ってお島を
窘
(
たしな
)
めたおゆうの目顔が、まだ目についていた。北海道の女よりも、
稚馴染
(
おさななじみ
)
のおゆうの方に、暗い多くの疑がかかっていた。
大きな石の門のうえに、植源と出ている
軒燈
(
けんとう
)
の下に突立って、やがてお島は家の方の
気勢
(
けはい
)
に神経を澄したが、石を敷つめた門のうちの両側に、枝を差交した木陰から見える玄関には、
灯影
(
ほかげ
)
一つ洩れていなかった。お島は
※
(
かなめ
)
と
欅
(
けやき
)
の木とで、二重になっている
外囲
(
そとがこい
)
の
周
(
まわり
)
を、
其方
(
そっち
)
こっち廻ってみたが、何のこともなかった。
車で家へ帰ったのは、大分おそかった。
「お帰んなさい」
店のもの二三人に声をかけられながら、車から降りると、奥の方の帳場に坐っている鶴さんの顔が、ちらと見えたので、お島は
漸
(
やっ
)
と胸一杯に安心と
歓喜
(
よろこび
)
との
溢
(
あふ
)
れて来るのを感じたが、
矢張
(
やっぱり
)
声をかける気になれなかった。
上ってみると、二階は出ていった時、取散していったままであった。
脱棄
(
ぬぎすて
)
が
投出
(
ほうりだ
)
してあったり、
蔽
(
おお
)
いをとられたままの
箪笥
(
たんす
)
の上の鏡に、疲れた自分の顔が映ったりした。お島はその前に立って、物足りぬ思いに暫くぼんやりしていた。