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三十六

  ( しばら ) くぶりで、一日遊びに来た姉が、その日も朝から店をあけている鶴さんや、知りたくもない植源の嫁の ( うわさ ) などをして、一人で 饒舌 ( しゃべ ) りちらして帰って行った。

 お島は気骨の折れる子持の客の帰ったあとで、 気憊 ( きづか ) れのした体を 帳場格子 ( ちょうばごうし ) にもたれて、ぼんやりしていた。お島の体は、 単衣 ( ひとえ ) もののこの頃では、夕方の涼みに表へ出るのも ( きまり ) のわるいほど、月が重っていた。

 旅から帰って来た鶴さんは、落着いて店で帳合をするような日とては、 ( ほと ) んど一日もなかった。 ( たま ) に家にいても、朝から二階へあがって、枕などを取出して、横になっているような事が多かった。機嫌のいい時には、これまで口にしたこともなかった、 ( みだ ) らな 端唄 ( はうた ) の文句などを 低声 ( こごえ ) ( うた ) って、一人で ( はしゃ ) いでいた。

「おお厭だ、誰にそんなものを教わって来ました」お島はぼつぼつ支度にかかっていた赤子の着物の ( きれ ) などを ( いじ ) りながら、傍で ( くすぐ ) ったいような 笑方 ( わらいかた ) をした。

「面白くでもない。北海道の女のお 自惚 ( のろけ ) なんぞ言って」

「どうして、そんなんじゃない」と云いそうな顔をして、鶴さんは物珍しげに、形のできた小さい 襦袢 ( じゅばん ) などを眺めていた。

「ちょいと、 貴方 ( あなた ) はどんな子が産れると思います」お島は始終気にかかっている事を、鶴さんにも ( ) いてみた。

「どうせ ( あっし ) には ( ) ていまい。そう思っていれあ ( たし ) かだ」鶴さんは鼻で笑いながら、後向になった。

「どうせそうでしょうよ、これは私のお土産ですもの」お島は不快な気持に顔を ( あから ) めた。「でも 笑談 ( じょうだん ) にもそういわれると、厭なものね。子供が可哀そうのようで」

此方 ( こっち ) の身も可哀そうだ」

「それは色女に逢えないからでしょう」

 二人の神経が段々 ( とが ) って来た。そしてお島に泣いて突かかられると、鶴さんはいきなり 跳起 ( はねお ) きて、家では滅多にあけたことのない折鞄をかかえて、外へ飛出してしまった。その折鞄のなかには、女の写真や手紙が一杯入っているのであった。

 今もお島は、何の気なしに聞過していた姉の話が、一々深い意味をもって、気遣しく思浮べられて来た。姉の話では、鶴さんの始終抱えて歩いている鞄のなかの ( ふみ ) が、時々植源の嫁の前などで、繰拡げられると云うのであった。

「それは 可笑 ( おか ) しいの」姉は一つはお島を ( あお ) るために、一つは鶴さんと仲のいい植源の嫁への 嫉妬 ( しっと ) のために、調子に乗って話した。

「その女というのが、美人の本場の越後から流れて来たとやらで、島ちゃんの旦那は 碌素法 ( ろくすっぽう ) 工場へ顔出しもしないで、そこへばかり 入浸 ( いりびた ) っていたんだって。それで、その手紙にこんな事まで書いてあるんだってさ。これも東京の人で、 彼方 ( あちら ) へ往く ( たんび ) に札びら切って、大尽風をふかしているお爺さんが、 鉱山 ( やま ) が売れたら、その女を 落籍 ( ひか ) して東京へつれていくといっているから、それを踏台にして、東京へ出ましょうかって。ねえ、ちょいとお安くないじゃないの」

 姉は植源の嫁から聞いたと云うその女の噂を、こまごまと話して聞した。

「それに鶴さんは、着物や 半衿 ( はんえり ) や、香水なんか、ちょいちょい 北海道 ( あちら ) へ送るんだそうだよ。島ちゃん ( しっか ) りしないと駄目だよ」姉はそうも言った。

( なあ ) に」と思って、お島は聞いていたのであったが、女にどんな手があるか解らないような、 恐怖 ( おそれ ) 疑惧 ( ぎぐ ) とを感じて来た。