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十六

 お島は父親が内へ入ってからも、暫く裏の植木畑のあたりを 逍遥 ( ぶらつ ) いていた。どうせここにいても、母親と毎日々々 ( いが ) みあっていなければならない。啀み合えば合うほど、自分の反抗心と、憎悪の念とが募って行くばかりである。長いあいだ忘れていた自分の子供の時分に受けた母親の仕打が、心に ( ) ( ただ ) れてゆくばかりである。一万二万と弟や妹の分前はあっても、自分には 一握 ( ひとつかみ ) の土さえないことを思うと頼りなかった。それかと言って、養家へ帰れば、寄って ( たか ) って 急度 ( きっと ) 作と結婚しろと責められるに決っていた。多くの取引先や 出入 ( ではいり ) の人達には、もうそれが単なる噂ではなくて、事実となって刻まれている。お島は作の顔を見るのも厭だと思った。あの 禿 ( はげ ) あがったような貧相らしい ( えり ) から、いつも耳までかかっている 尨犬 ( むくいぬ ) のような 髪毛 ( かみのけ ) や赤い目、 ( のろ ) くさい口の 利方 ( ききかた ) や、卑しげな奴隷根性などが、一緒に育って来た男であるだけに、一層醜くも 蔑視 ( さげす ) ましくも思えた。あんな男と一緒に一生暮せようとは、どうしても考えられなかった。実母がそれを生意気だといって ( ののし ) るのはまだしも、実父にまで、時々それを ( おし ) つけようとする 口吻 ( こうふん ) を洩されるのは、 ( ) えられないほど情なかった。

 大分たってから ( みんな ) の前へ呼ばれていった時、お島は ( やっ ) と目に 入染 ( にじ ) んでいる涙を ( ) いた。

( わし ) もこの四五日 ( せわ ) しいんで、聞いてみる ( ひま ) もなかったが、全体お前の 了簡 ( りょうけん ) はどういうんだな」

 お島が ( ) てたような顔をして、そこへ坐ったとき、父親が ( かた ) い手に 煙管 ( きせる ) を取あげながら訊ねた。お島は ( うる ) んだ 目色 ( めつき ) をして、黙っていた。

「今日までの阿母さんの恩を考えたら、お前が作さんを嫌うの何のと、我儘を言えた義理じゃなかろうじゃねえか。ようく物を考えてみろよ」

「私は厭です」お島は顔の筋肉を ( わなな ) かせながら言った。

( ほか ) の事なら、何でも ( ) て御恩返しをしますけれど、これだけは私厭です」

 父親は黙って煙管を ( くわ ) えたまま ( うつむ ) いてしまったが、母親は憎さげにお島の顔を ( みつ ) めていた。

「島、お前よく考えてごらんよ。 ( みな ) さんの前でそんな御挨拶をして、それで済むと思っているのかい。義理としても、そうは言わせておかないよ。 真実 ( ほんと ) ( あき ) れたもんだね」

「どうしてまたそう作太郎を嫌ったものだろうねえ」おとらは 前屈 ( まえこご ) みになって、 華車 ( きゃしゃ ) な銀煙管に煙草をつめながら一服 ( ふか ) すと、「だからね、それはそれとして、 ( ) ( かく ) 私と一緒に一度還っておくれ。そんなに厭なものを、私だって無理にとは言いませんよ。出入の人達の口も ( うるさ ) いから、今日はまあ帰りましょう。ねえ。話は後でもできるから」と ( なだ ) めるように言って、そろそろ煙管を仕舞いはじめた。

 お島を ( うなず ) かせるまでには、大分手間がとれたが、帰るとなると、お島は自分の関係が 分明 ( はっきり ) わかって来たようなこの家を出るのに、何の未練気もなかった。

「どうも済みません。色々御心配をかけました」お島はそう言って挨拶をしながら、おとらについて出た。

 そして何時にかわらぬ威勢のいい調子で、 気爽 ( きさく ) におとらと話を交えた。

「男前が好くないからったって、そう嫌ったもんでもないんだがね」

 おとらは 途々 ( みちみち ) お島に話しかけたが、 ( ) ( かく ) 作の事はこれきり一切口にしないという約束が 取極 ( とりき ) められた。