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七十一

 晩春から夏へかけて、それでもお島が二着三着と受けて来た仕事に、多少の景気を添えていたその店も、七、八、九の三月にわたっては、金にならない直しものが ( たま ) に出るくらいで、ミシンの廻転が幾どもばったり止ってしまった。

 最初お島が仲間うちの店から借りて来たサンプルを持って、註文を引出しに行ったのは、 生家 ( さと ) 居周 ( いまわり ) にある昔からの知合の家などであったが、受けて来る仕事は、大抵 詰襟 ( つめえり ) の労働服か、自転車乗の 半窄袴 ( はんズボン ) ぐらいのものであった。それでもお島の試された如才ない調子が、そんな仕事に適していることを ( あか ) すに十分であった。

 サンプルをさげて出歩いていると、男のなかに ( まざ ) って、 ( ) を取決めたり、値段の掛引をしたり、尺を取ったりするあいだ、お島は自分の浸っているこの頃の苦しい生活を忘れて、浮々した調子で、 笑談 ( じょうだん ) やお世辞が何の苦もなく言えるのが、待設けない彼女の興味をそそった。

 煙突の多い王子のある会社などでは、 応接室 ( おうせつま ) へ多勢集って来て、面白そうに彼女の 周囲 ( まわり ) 取捲 ( とりま ) いたりした。

「もし好かったら、どしどし註文を出そう」

 その中の一人はそう言って、彼女を引立てるような意志をさえ漏した。

「そう一 ( とき ) に出ましても、手前どもではまだ資本がございませんから」

 お島はその会社のものを、自分の口一つで一手に引受けることが何の雑作もなさそうに思えたが、引受けただけの仕事の材料の仕込にすら 差閊 ( さしつか ) えていることを考えずにはいられなかった。

 註文が出るに従って、材料の仕込に ( ひどく ) 工面 ( くめん ) をして 追着 ( おっつ ) かないような手づまりが、時々 ( ) 顧客 ( とくい ) を逃したりした。

「ええ、 ( よろ ) しゅうございますとも、 ( ほか ) さまではございませんから」

 品物を納めに行ったとき、客から金の猶予を言出されると、お島は悪い顔もできずに、調子よく引受けたが、それを帰って、後の仕入の金を待設けている小野田に、報告するのが ( せつ ) なかった。それでまた外の 顧客先 ( とくいさき ) へ廻って、 ( だる ) い不安な時間を紛らせていなければならなかった。

「堅い人だがね、どうしてくれなかったろう」

 お島は小野田の失望したような顔を見るのが ( いや ) さに、小野田がいつか手本を示したように、 ( そっ ) と直しものの客の二重廻しなどを風呂敷に ( つつ ) みはじめた。

「どうせ冬まで ( ねか ) しておくものだ」お島は心の奥底に ( よど ) んでいるような不安と恐怖を圧しつけるようにして言った。そしてこの頃 ( なじ ) みになった家へ、それを ( だき ) こんで行った。

 一日外をあるいているお島は、夜になるとぐっすり寝込んだ。昼間居眠をしておる男の体が、時々 夢現 ( ゆめうつつ ) のような彼女の疲れた心に、重苦しい圧迫を感ぜしめた。