五十七
浜屋の主人が、二度ばかり逢いに来てくれた。
主人は来れば
急度
(
きっと
)
湯に入って、一晩泊って行くことにしていたが、お
終
(
しまい
)
に別れてから、物の二日とたたぬうちに、また遣って来た。東京から
突如
(
だしぬけ
)
に出て来たお島の父親をつれて来たのであった。
お島はその時、
貰
(
もら
)
い
子
(
ご
)
の小娘を手かけに
負
(
おぶ
)
って、裏の山畑をぶらぶらしながら、道端の花を
摘
(
つ
)
んでやったりしていた。この町でも場末の汚い
小家
(
こいえ
)
が、二三軒離れたところにあった。朝晩は東京の四月頃の陽気であったが、昼になると、急に真夏のような強い太陽の光熱が目や皮膚に
沁通
(
しみとお
)
って
仄
(
ほの
)
かな草いきれが、鼻に通うのであった。一雨ごとに桑の若葉の緑
が濃くなって行った。
「東京から
御父
(
おとっ
)
さんが見えたから、ここへ連れて来たよ」
主人は或百姓家の庭の、
藤棚
(
ふじだな
)
の蔭にある
溝池
(
どぶいけ
)
の
縁
(
ふち
)
にしゃがんで、子供に
緋鯉
(
ひごい
)
を見せているお島の姿を見つけると、傍へ寄って来て
私語
(
ささや
)
いた。
「へえ......来ましたか」
お島は息のつまるような声を出して叫んだなり、男の顔をしげしげ眺めていた。
「いつ来ました?」
「十一時頃だったろう。着くと直ぐ、連れて帰ると言うから、お島さんが
此方
(
こっち
)
へ来ている話をすると、それじゃ
私
(
わし
)
が一人で行って連れて来るといって、
急立
(
せきた
)
つもんだからな」
「ふむ、ふむ」
とお島は
鼻頭
(
はながしら
)
の汗もふかずに聞いていたが、「気のはやい御父さんですからね」と溜息をついた。
「それでどうしました」
「今あすこで一服すって待っているだが、顔さえ見れば直ぐに
引立
(
ひった
)
てて連れて行こうという
見脈
(
けんまく
)
だで......」
「ふむ」と、お島は蒼くなって、ぶるぶるするような声を出した。
「御父さんにここで逢うのは厭だな」お島は手を堅く組んで首を
傾
(
かし
)
げていた。「どうかして逢わないで還す工夫はないでしょうか」
「でも、ここに居ることを打明けてしまったからね」
「ふむ......
拙
(
まず
)
かったね」
「とにかく
些
(
ちょっ
)
と逢った方がいいぜ。その上で、また善く相談してみたらどうだ」
「ふむ――」と、お島はやっぱり
凄
(
すご
)
い顔をして、考えこんでいた。「東京を出るとき、私は一生親の家の厄介にはなりませんと、立派に
言断
(
いいき
)
って来ましたからね。今逢うのは実に
辛
(
つら
)
い!」
お島の目には、ほろほろ涙が流れだして来た。
「為方がない、
思断
(
おもいき
)
って逢いましょう」暫くしてからお島は言出した。「逢ったらどうにかなるでしょう」
二人は藤棚の蔭を離れて、
畔道
(
あぜみち
)
へ出て来た。