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九十八

 避暑客などの 雑沓 ( ざっとう ) している上野の 停車場 ( ステーション ) で、お島が浜屋に別れたのは、盆少し前の或日の午後であったが、そんな人達が全く引揚げて行ってから、お島たちはまた自分の家のばたばたになっていることに気がついた。

 浜屋はお島に買せた色々の東京 土産 ( みやげ ) などを提げこんで、パナマを前のめりに ( かぶ ) り、お島が買ってくれた草履をはいて、軽い 打扮 ( いでたち ) で汽車に乗ったのであったが、お島も 絽縮緬 ( ろちりめん ) の羽織などを着込んで、結立ての丸髷頭で来ていた。

 足音の騒々しい構内を、二人は控室を出たり入ったりして、発車時間を待っていたが、このステーションの気分に浸っていると、 自然 ( ひとりで ) に以前の自分の山の生活が想出せて来て、 涙含 ( なみだぐ ) ましいような気持になるのであった。

「どうでしょう。西洋人は 活溌 ( かっぱつ ) でいいね」

 日光へでも行くらしい、 男女 ( おとこおんな ) の外国人の 綺麗 ( きれい ) な姿が、彼等の前を ( よこぎ ) って行ったとき、お島は男に別れる自分の寂しさを 蹴散 ( けちら ) すように、そう云って、嘆美の声を放った。

「どうだね、一緒に行かないか」

 浜屋は瀬戸物のような美しい皮膚に、この頃はいくらか 日焦 ( ひやけ ) がして、目の色も鋭くなっていたが、お島が暫くでも夫婦ものの旅行と見られるのが嬉しいような、 目眩 ( まぶし ) いような気持のするほど、それは様子が好かった。

 客車に乗ってからも、お島は窓の前に立って、元気よく話を交えていたが、そのうちに汽車がするする出て行った。

「そのうち景気が直ったら、一度温泉へでも来るさ」

 浜屋は窓から顔を出して、どうかすると 睫毛 ( まつげ ) をぬらしているお島に、そんな事を言っていた。

 お島はとぼとぼと構内を出て来たが、やっぱり 後髪 ( うしろがみ ) ( ひか ) るるような未練が残っていた。

 盆が来ると、お島は 顧客先 ( とくいさき ) への配りものやら、方々への支払やらで 気忙 ( きぜわ ) しいその日その日を送っていた。そして着いてから葉書をよこした浜屋のことも忘れがちでいたが、自分たちの不幸な夫婦であったことが、一層判って来たような気がした。お島は時々その事に思い ( ふけ ) っているのであったが、それを小野田に感づかれるのが、不安であった。お島は 可恥 ( はずか ) しい自分の秘密な経験を押隠すことを怠らなかった。

 暑い盛に博覧会が ( とざ ) されてから、お島たちの 居周 ( いまわり ) の町々には、急に潮がひいたように寂しさが襲って来たと同時に、二人の店にもこれまで紛らされていたような、 頽廃 ( たいはい ) の色が、まざまざと目に見えて来た。

 多くの建物の、日に日に壊されて行く上野を、店を支えるための金策の奔走などで、毎日のようにお島は通った。やがてまた持切れそうもない今の家を一思いに 放擲 ( ほうりだ ) して ( しま ) いたいような気分になっていた。

「ここは縁起がわるいから、私たちはまたどこかで新規 蒔直 ( まきなお ) しです」

 ここへ引移って来てから、貸越の大分たまって来ている 羅紗 ( らしゃ ) の仲買などに、お島は投出したような 棄鉢 ( すてばち ) な調子で言っていた。