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百十一

 博覧会時分に上京して来た、山の人たちに威張って逢えるだけの身のまわりを ( こしら ) えて、お島があわただしい思いで上野から出発したのは、六月の初めであった。

 四五年前に、兄に ( そその ) かされて行った頃の暗い悲しい心持などは、今度の旅行には見られなかったが、秘密な歓楽の ( ) をでも ( ぬす ) みに行くような不安が、汽車に乗ってからも、時々彼女の 頭脳 ( あたま ) を曇らした。

 汽車の通って行く平野のどこを眺めても、 ( むか ) しの記憶は浮ばなかった。大宮だとか高崎だとかいうような、大きなステーションへ入るごとに、彼女は窓から首を出して、 四下 ( あたり ) を眺めていたが、しばらく東京を離れたことのない彼女には、どこも初めてのように印象が新しかった。高崎では、そこから ( わか ) れて 伊香保 ( いかお ) へでも行くらしい 男女 ( おとこおんな ) の楽しい旅の明い姿の幾組かが、彼女の目についた。蓄音器をさげて父親を ( よろこ ) ばせに行った小野田が思出された。 不恰好 ( ぶかっこう ) な洋服を着たり、自転車に乗ったりして、一年中働いている自分が、 ( すべ ) て見くびっているつもりの男のために、好い工合に駆使されているのだとさえしか思われなかった。

「わたしは莫迦だね。浜屋に逢いに行くのにさえ、こんなに気兼をしなくてはならない。あの人はこれまでに、私に何をしてくれたろう」

 お島は口を利くものもない客車のなかで、静かに東京の ( ほこり ) のなかで活動している自分の姿が考えられるような気がした。 慾得 ( よくとく ) のためにのみ一緒になっているとしか思えない小野田に対する 我儘 ( わがまま ) な反抗心が、彼女の 頭脳 ( あたま ) をそうも 偏傾 ( へんけい ) せしめた。何のために 血眼 ( ちまなこ ) になって働いて来たか解らないような、孤独の寂しさが、心に 沁拡 ( しみひろ ) がって来た。

 桐の花などの咲いている、夏の繁みの濃い平野を横ぎって、汽車はいつしか山へさしかかっていた。高崎あたりでは日光のみえていた 梅雨時 ( つゆどき ) の空が、山へ入るにつれて陰鬱に曇っているのに気がついた。窓のつい眼のさきにある山の姿が、 淡墨 ( うすずみ ) ( ) いたように、水霧に ( つつ ) まれて、 目近 ( まぢか ) の雑木の小枝や、崖の草の葉などに漂うている雲が、しぶきのような水滴を 滴垂 ( したた ) らしていたりした。白い岩のうえに、目のさめるような 躑躅 ( つつじ ) が、古風の 屏風 ( びょうぶ ) の絵にでもある様な ( あざや ) かさで、咲いていたりした。水がその 巌間 ( いわま ) から流れおちていた。

 深い ( たに ) や、高い山を幾つとなく送ったり迎えたりするあいだに、汽車は 幾度 ( いくたび ) となく高原地の静なステーションに ( とど ) まった。旅客たちは 敬虔 ( けいけん ) なような目を ( そば ) だてて、山の姿を眺めた。

 ステーションへつく度に、お島は待遠しいような気がいらいらいした。

 山の町近くへ来たのは、午後の四時頃であった。 ( ぬか ) のような雨が、そのあたりでも窓硝子を曇らしていた。