十
お島は養父が、二三軒の知合の家へ葉書を出したことを知っていたが、おとらが帰ってから、
漸
(
やっ
)
と届いたおとらの
生家
(
さと
)
の外は、その返辞はどこからも来なかった。
養父はどうかすると、蚕室にいるお島の傍へ来て、もうひきるばかりになっている蚕を眺めなどしていた。蚕の或物はその
蒼白
(
あおじろ
)
い
透徹
(
すきとお
)
るような
躯
(
からだ
)
を
硬張
(
こわばら
)
せて、細い糸を吐きかけていた。
「お前
阿母
(
おっかあ
)
から口止されてることがあるだろうが」
養父はこの時に限らず、おとらのいない処で、どうかするとお島に
訊
(
たず
)
ねた。
「どうしてです。いいえ」お島は顔を
赧
(
あから
)
めた。
しかし養父はそれ以上深入しようとはしなかった。お島にはおとらに対する養父の弱点が見えすいているようであった。
もう遊びあいて、
家
(
うち
)
が気にかかりだしたと云う風で、おとらの帰って来たのは、その日の暮近くであった。養父はまだ帳場の方を離れずにいたが、おとらは亭主にも
辞
(
ことば
)
もかけず、「はい只今」と、お島に声かけて、茶の間へ来て足を投げ出すと、せいせいするような
目色
(
めつき
)
をして、庭先を眺めていた。濃い緑の草や木の色が、まだ油絵具のように
生々
(
なまなま
)
してみえた。
お島は脱ぎすてた晴衣や、汗ばんだ
襦袢
(
じゅばん
)
などを、風通しのいい座敷の方で、
衣紋竹
(
えもんだけ
)
にかけたり、茶をいれたりした。
「こんな時に顔を出しておきましょうと思って、方々歩きまわって来たよ」おとらは行水をつかいながら、
背
(
せなか
)
を流しているお島に話しかけた。その行った先には、種違いのおとらの妹の
片着先
(
かたづきさき
)
や、子供のおりの田舎の友達の縁づいている家などがあった。それらは
皆
(
みん
)
な東京のごちゃごちゃした下町の方であった。そして誰も好い暮しをしている者はないらしかった。そして一日二日もいると、
直
(
じき
)
に
厭気
(
いやけ
)
がさして来た。おとら夫婦は、金ができるにつれて、それ等の人達との間に段々隔てができて、
往来
(
ゆきき
)
も絶えがちになっていた。
生家
(
さと
)
とも
矢張
(
やっぱり
)
そうであった。
湯から上がって来ると、おとらは東京からこてこて持って来た
海苔
(
のり
)
や
塩煎餅
(
しおせんべい
)
のようなものを、
明
(
あかり
)
の下で亭主に見せなどしていたが、飯がすむと蚊のうるさい茶の間を離れて、
直
(
じき
)
に
蚊帳
(
かや
)
のなかへ入ってしまった。
毎夜々々寝苦しいお島は、白い地面の
瘟気
(
いきれ
)
の夜露に吸取られる頃まで、外へ持出した縁台に涼んでいたが、近所の娘達や若いものも、時々そこに落会った。町の若い男女の噂が
賑
(
にぎわ
)
ったり、
悪巫山戯
(
わるふざけ
)
で女を
怒
(
おこ
)
らせたりした。
仕舞湯
(
しまいゆ
)
をつかった作が、
浴衣
(
ゆかた
)
を引かけて出て来ると、うそうそ傍へ寄って来た。
「この
莫迦
(
ばか
)
また出て来た」お島は腹立しげについと其処を離れた。