五十九
お島が
腫
(
はれ
)
ぼったいような目をして、父親の朝飯の給仕に坐ったのは、大分たってからであった。明放した部屋には、
朝間
(
あさま
)
の寒い風が吹通って、
田圃
(
たんぼ
)
の方から、ころころころころと
啼
(
な
)
く
蛙
(
かわず
)
の声が聞えていた。
「今日は雨ですよ。とても帰れやしませんよ」お島は
縁
(
えん
)
の
端
(
はじ
)
へ出て、水分の多い曇空を眺めながら
呟
(
つぶや
)
いた。
「さあ、どういう風になっているんですかね、私にもさっぱりわからないんですよ。多分お金なんか
可
(
い
)
いんでしょう」
ここに五十両もって来ているから、それで大概借金の方は片着く
意
(
つもり
)
だからといって、父親が胴巻から金を出したとき、お島は
空※
(
そらとぼ
)
けた顔をして言った。
「それじゃ御父さん
恁
(
こ
)
うしましょう。私も長いあいだ世話になった家ですから、これから
忙
(
いそが
)
しくなろうと云うところを見込んで、帰って行くのも義理が悪いから、六月一杯だけいて、遅くともお盆には帰りましょう」
お島はそうも言って、父親を
宥
(
なだ
)
め帰そうと努めたが、こんな所に長くいては、どうせ碌なことにはならないからと言張って、やっぱり
肯
(
き
)
かなかった。田舎へ流れていっている娘について、近所で立っている色々の風聞が、父親の耳へも伝わっていた。
「立つにしたって、浜屋へもちょっと寄らなくちゃならないし、精米所だって顔を出さないで行くわけにいきやしませんよ。私だって髪の一つも結わなくちゃ......」お島は腹立しそうに
終
(
しまい
)
にそこを立っていったが、父親も到頭職人らしい若い時分の気象を出して、娘の体を
牽着
(
ひきつ
)
けておく風の悪い田舎の奴等が無法だといって怒りだした。
「お前と己とじゃ話のかたがつかねえ。誰でもいいから、話のわかるものを
此処
(
ここ
)
へ呼んできねえ」
父親は高い声をして言出した。
廊下をうろうろしていたお島の姿が、やがて浴場の方に現われた。
お島は目に一杯涙をためて、鏡の前に立っていたが、
硝子戸
(
ガラスど
)
をすかしてみると、今起きて出たばかりの男の白い顔が、湯気のもやもやした広い浴槽のなかに見られた。
「弱っちまうね、御父さんの
頑固
(
がんこ
)
にも......」お島はそこへ顔を出して、溜息を
吐
(
つ
)
いた。
「何といったって駄目だもの」
どうしようと云う話もきまらずに、そこに二人は
暫
(
しばら
)
く立話をしていたが、するうち
※
(
とき
)
が段々移っていった。
浜屋が湯からあがった時分には、お島の姿はもう家のどの部屋にも見られなかった。
町を離れて、山の方へお島は一人でふらふら登って行った。山はどこも
彼処
(
かしこ
)
も
咽
(
むせ
)
かえるような若葉が
鬱蒼
(
うっそう
)
としていた。
痩
(
や
)
せた
菜花
(
なたね
)
の咲いているところがあったり、
赭土
(
あかつち
)
の多い
禿山
(
はげやま
)
の蔭に、瀬戸物を焼いている
竈
(
かまど
)
の煙が、ほのぼのと立昇っていたりした。お島は静かなその山のなかへ、ぐんぐん入っていった。誰の目にも触れたくはなかった。どこか
人迹
(
ひとあと
)
のたえたところで、思うさま泣いてみたいと思った。