七十二
それからそれへと、段々
展
(
ひろ
)
げて行った遠い
顧客先
(
とくいさき
)
まわりをして、どうかすると、夜遅くまで帰って来ないお島には解らないような、苦しい
遣繰
(
やりくり
)
が持切れなくなって来たとき、小野田の計画で到頭そこを引払って、月島の方へ移って行ったのは、その冬の初めであった。
造作を売った二百円
弱
(
たらず
)
の金が、その時小野田の手にあった。
細々
(
こまごま
)
した近所の買がかりに支払をした残りで、彼はまた新しく仕事に
取着
(
とっつ
)
く方針を案出して、そこに安い家を見つけて、移って行ったのであったが、
意
(
おも
)
いのほか金が散かったり品物が
掛
(
かけ
)
になったりして、資本の運転が止ったところで、去年よりも一層不安な年の暮が、
直
(
すぐ
)
にまた二人を見舞って来た。
荒いコートに派手な
頸捲
(
えりまき
)
をして、毎日のように朝
夙
(
はや
)
くから出歩いているお島が、掛先から
空手
(
からて
)
でぼんやりして帰って来るような日が、
幾日
(
いくか
)
も続いた。
仕事の途絶えがちな――
偶
(
たま
)
に有っても賃銀のきちんきちんと貰えないような仕事に働くことに
倦
(
う
)
んで来た若い職人は、好い口を捜すために、一日店をあけていた。
病気のために、中途戦争から帰って来たその職人は、軍隊では上官に可愛がられて上等兵に取立てられていたが、久振で内地へ帰ってくると、職人
気質
(
かたぎ
)
の初めのような
真面目
(
まじめ
)
さがなくなって、持って来た
幾許
(
いくら
)
かの金で、茶屋酒を飲んだり、女に
耽
(
ふけ
)
ったりして、金に詰って来たために、もと居た店の物をこかしたり、友達の着物を持逃したりして
居所
(
いどころ
)
がなくなったところから、小野田の店へ流れて来たのであったが、その時にはもうすっかりさめてしまって、
旧
(
もと
)
の小心な臆病ものの自分になり切っていた。
来た当座、針を動かしている彼は時々巡査の影を見て
怕
(
おそ
)
れおののいていた。そしてどんな事があっても、一切
日
(
ひ
)
の
面
(
おもて
)
へ出ることなしに、家にばかり
閉籠
(
とじこも
)
っていた。彼は救われたお島のために、家のなかではどんな用事にも働いたが、昼間外へ出ることとなると、
釦
(
ボタン
)
一つ買いにすら行けなかった。点呼にも彼は居所を
晦
(
くら
)
ましていて出て行く機会を失った。それが一層彼の心を
萎縮
(
いしゅく
)
させた。
今朝も彼は朝飯のとき、奥での夫婦の争いを、
蒲団
(
ふとん
)
のなかで聴いていながら、臆病な神経を
戦
(
わなな
)
かせていた。最初その争いは多分夫婦間独自の衝突であったらしく思えたが、この頃の行詰った生活問題にも
繋
(
つなが
)
っていた。
「私はこうみえても動物じゃないんだよ。そうそう外も内も勤めきれんからね」
お島はこの頃よく口にするお株を、また初めていた。
誰があの職人を今まで引留めておいたかと言うことが、二人の争いとなった。
「お前さんさえ働けば、家なんざ小僧だけで沢山なんだ」飽っぽいようなお島が言出していた。どんな事があっても、三人でこの店を守立ててみせると力んでいた彼女が、どんな不人情な心を持っているかとさえ疑われた。