九十
狭い三畳での、窮屈で不自由な夫婦生活からと、男か女かの
孰
(
いず
)
れかにあるらしい或生理的の異常から来る男の不満とが、時とするとお島には堪えがたい圧迫を感ぜしめた。
「へえ、そんなもんですかね」
若い亭主を持っている印判屋の上さんから、男女間の性慾について、時々聞かされることのあるお島は、それを不思議なことのように疑い
異
(
あやし
)
まずにはいられなかった。
「じゃ、私が
不具
(
かたわ
)
なんでしょうかね」
お島はどうかすると、男の
或
(
ある
)
不自然な思いつきの要求を満すための、自分の肉体の苦痛を想い出しながら、上さんに
訊
(
き
)
いた。
「でもこれまで私は一度も、そんな事はなかったんですからね」
お島はどんな事でも打明けるほどに親しくなった上さんにも、これまでに外に良人を持った経験のあることを話すのに、この上ない
羞恥
(
しゅうち
)
を感じた。
「
真実
(
ほんとう
)
は、私はあの人が初めじゃないんですよ」
「それじゃ旦那が悪いんでしょうよ」
「でも、あの人はまた私が
不可
(
いけな
)
いんだと言うんですの。だから私もそうとばかり思っていたんですけれど......
真実
(
ほんと
)
に
気毒
(
きのどく
)
だと思っていたんです」
「そんな莫迦なことってあるもんじゃ有りませんよ、お医者に診ておもらいなさい」
上さんは、
真実
(
まったく
)
それが
満
(
つま
)
らない、気毒な引込思案であるかのように、色々の人々の場合などを話して勧めた。
「まさか......
極
(
きまり
)
がわりいじゃありませんか」
お島は
耳朶
(
みみたぶ
)
まで紅くなった。若い男などを
有
(
も
)
っている
猥
(
みだら
)
な年取った女のずうずうしさを、
蔑視
(
さげす
)
まずにはいられなかったが、やっぱりその事が気にかかった。人並でない自分等夫婦の、一生の不幸ででもあるように思えたりした。
朝になっても、体中が
脹
(
は
)
れふさがっているような痛みを感じて、お島はうんうん
唸
(
うな
)
りながら、寝床を離れずにいるような事が多かった。そして朝方までいらいらしい神経の興奮しきっている男を、心から憎く
浅猿
(
あさま
)
しく思った。
「こんな事をしちゃいられない」
お島は註文を聞きに廻るべき
顧客先
(
とくいさき
)
のあることに気づくと、寝床を
跳
(
はね
)
おきて、身じまいに取かかろうとしたが、男は悪闘に疲れたものか何ぞのように、裁板の前に薄ぼんやりした顔をして、
夢幻
(
ゆめうつつ
)
のような目を
目眩
(
まぶ
)
しい日光に
瞑
(
つぶ
)
っていた。
「それじゃ私が旦那に一人、好いのをお世話しましょうか」
上さんは、
笑談
(
じょうだん
)
らしく
妾
(
めかけ
)
の周旋を頼んだりする小野田に言うのであったが、お島はやっぱりそれを聞流してはいられなかった。
「そうすればお上さんもお勤めがなくて楽でしょう」
「莫迦なことを言って下さるなよ。妾なんかおく
身上
(
しんしょう
)
じゃありませんよ」
お島は腹立しそうに言った。