五十四
新座敷の方の庭から、丁字形に入込んでいる中庭に臨んだ主人の
寝室
(
ねま
)
を、お島はある朝、
毎朝
(
いつも
)
するように掃除していた。障子
襖
(
ふすま
)
の
燻
(
くす
)
ぼれたその部屋には、持主のいない真新しい箪笥が
二棹
(
ふたさお
)
も
駢
(
なら
)
んでいて、嫁の着物がそっくり中に仕舞われたきり、錠がおろされてあった。お島は苦しい夢を見ているような心持で、そこを掃出していたが、不安と悔恨とが、また新しく胸に
沁出
(
しみだ
)
していた。
お島は人に口を
利
(
き
)
くのも、顔を見られるのも厭になったような自分の心の
怯
(
おび
)
えを紛らせるために、一層
精悍
(
かいがい
)
しい様子をして立働いていた。そして客の
膳立
(
ぜんだて
)
などをする場所に当ててある薄暗い部屋で、妹達と一緒に朝飯をすますと、自分独りの思いに耽るために、急いで湯殿へ入っていった。窓に
色硝子
(
いろガラス
)
などをはめた湯殿には、板壁にかかった姿見が、うっすり
昨夜
(
ゆうべ
)
の湯気に曇っていた。お島はその前に立って、いびつなりに映る自分の顔に
眺入
(
ながめい
)
っていた。親達や兄や多くの知った人達と離れて、こんな処に働いている自分の姿が
可憐
(
いじら
)
しく思えてならなかった。
お島は湯をぬくために、冷い
三和土
(
たたき
)
へおりて行った。目が涙に曇って、そこに
溢
(
あふ
)
れ流れている
噴井
(
ふきい
)
の水もみえなかった。他人の中に育ってきたお蔭で、誰にも
痒
(
かゆ
)
いところへ手の
達
(
とど
)
くように気を使うことに慣れている自分が、若主人の
背
(
せなか
)
を、昨夜も流してやったことが
憶出
(
おもいだ
)
された。そうした不用意の誘惑から来た男の誘惑を、
弾返
(
はねかえ
)
すだけの意地が、自分になかったことが悲しまれた。
「鶴さんで
懲々
(
こりごり
)
している!」
お島はその時も、
溺
(
おぼ
)
れてゆく自分の
成行
(
なりゆき
)
に不安を感じた。
お島は力ない手を、
浴槽
(
よくそう
)
の
縁
(
ふち
)
につかまったまま、
流
(
なが
)
れ
減
(
た
)
っていく湯を、うっとり眺めていた。ごぼごぼと云う音を立てて、湯は流れおちていった。
橋をわたって、裏の
庫
(
くら
)
の方へゆく、主人の
筒袖
(
つつそで
)
を着た物腰の
細
(
ほっそ
)
りした姿が、硝子戸ごしにちらと見られた。お島は今朝から、まだ一度もこの主人の顔を見なかった。親しみのないような皮膚の
蒼白
(
あおじろ
)
い、手足などの
繊細
(
きゃしゃ
)
なその体がお島の感覚には、触るのが気味わるくも思えていたのであったが、今朝は一種の魅力が、自分を
惹着
(
ひきつ
)
けてゆくようにさえ思われた。
「郵便が来ているよ」
不意にその主人が、湯殿のなかへ顔を出して、
懐
(
ふとこ
)
ろから一封の手紙を出した。
それは王子の父親のところから来たのであった。
「へえ、何でしょう」
お島は手を拭きながら、それを受取った。そして封を
披
(
ひら
)
いて見た。