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 お ( しま ) 養親 ( やしないおや ) の口から、近いうちに自分に 入婿 ( いりむこ ) の来るよしをほのめかされた時に、彼女の 頭脳 ( あたま ) には、まだ何等の 分明 ( はっきり ) した考えも起って来なかった。

 十八になったお島は、その頃その 界隈 ( かいわい ) 男嫌 ( おとこぎら ) いという評判を立てられていた。そんなことをしずとも、町屋の娘と同じに、裁縫やお琴の 稽古 ( けいこ ) でもしていれば、立派に年頃の 綺麗 ( きれい ) な娘で通して行かれる養家の家柄ではあったが、 手頭 ( てさき ) などの器用に産れついていない彼女は、じっと部屋のなかに坐っているようなことは余り好まなかったので、 ( ちいさ ) いおりから善く外へ出て田畑の土を ( いじ ) ったり、若い男たちと一緒に、田植に出たり、稲刈に働いたりした。そうしてそんな荒仕事がどうかすると ( むし ) ろ彼女に適しているようにすら思われた。養蚕の季節などにも彼女は 家中 ( うちじゅう ) の誰よりも善く働いてみせた。そうして養父や養母の気に入られるのが、何よりの楽しみであった。界隈の若い者や、 ( やと ) い男などから、彼女は時々 揶揄 ( からか ) われたり、 ( みだ ) らな 真似 ( まね ) をされたりする機会が多かった。お島はそうした男たちと一緒に働いたり、ふざけたりして ( はしゃ ) ぐことが ( すき ) であったが、誰もまだ彼女の ( ほお ) や手に触れたという者はなかった。そう云う場合には、お島はいつも荒れ馬のように暴れて、 ( ) ッぴどく男の手顔を引かくか、さもなければ人前でそれを 素破 ( すっぱ ) ぬいて ( はじ ) をかかせるかして、自ら ( よろこ ) ばなければ止まなかった。

 お島は今でもその頃のことを善く覚えているが、彼女がここへ ( もら ) われてきたのは、七つの年であった。お島は 昔気質 ( むかしかたぎ ) 律義 ( りちぎ ) な父親に手をひかれて、或日の晩方、自分に深い憎しみを持っている母親の ( あら ) い怒と 惨酷 ( ざんこく ) 折檻 ( せっかん ) から ( のが ) れるために、野原をそっち 此方 ( こっち ) 彷徨 ( うろつ ) いていた。時は秋の末であったらしく、近在の貧しい町の休茶屋や、飲食店などには赤い柿の実が、枝ごと ( つる ) されてあったりした。父親はそれらの休み茶屋へ入って、子供の疲れた足を ( いた ) わり休めさせ、自分も茶を呑んだり、 ( たばこ ) をふかしたりしていたが、無智なお島は、茶屋の女が ( ) いてくれる柿や 塩煎餅 ( しおせんべい ) などを食べて、 臆病 ( おくびょう ) らしい目でそこらを見まわしていた。今まで赤々していた 夕陽 ( ゆうひ ) がかげって、 野面 ( のづら ) からは寒い風が吹き、方々の木立や、木立の蔭の人家、黄色い 懸稲 ( かけいね ) ( くろ ) い畑などが、一様に 夕濛靄 ( ゆうもや ) ( つつ ) まれて、一日 苦使 ( こきつか ) われて疲れた ( からだ ) ( ものう ) げに、往来を通ってゆく駄馬の姿などが、物悲しげみえた。お島は大きな重い車をつけられて、従順に引張られてゆく動物のしょぼしょぼした目などを見ると、何となし涙ぐまれるようであった。気の荒い母親からのがれて、娘の 遣場 ( やりば ) に困っている自分の父親も可哀そうであった。

 お島は 爾時 ( そのとき ) 、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは 尾久 ( おく ) ( わたし ) あたりでもあったろうか、のんどりした 暗碧 ( あんぺき ) なその水の ( おも ) にはまだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに ( ) いでゆく ( さび ) しい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと ( ひた ) って、怪獣のような暗い木の影が、そこに ( ゆら ) めいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を ( なが ) めているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の 畏怖 ( いふ ) と安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に ( すが ) っているのであった。