六十
山の方へ入って行くお島の姿を見たという人のあるのを頼りに、方々捜しあるいた末に、或松山へ登って行った浜屋と父親との目に、猟師に追詰められた兎か
何
(
なん
)
ぞのように、山裾の
谿川
(
たにがわ
)
の岸の草原に
跪坐
(
しゃが
)
んでいる、彼女の姿の発見されたのは、それから大分たってからであった。
赤い
山躑躅
(
やまつつじ
)
などの咲いた、その
崖
(
がけ
)
の下には、
迅
(
はや
)
い水の瀬が、ごろごろ転がっている石や岩に砕けて、
水沫
(
しぶき
)
を
散
(
ちら
)
しながら流れていた。危い丸木橋が両側の
巌鼻
(
いわはな
)
に
架渡
(
かけわた
)
されてあった。お島はどこか自分の死を想像させるような場所を
覗
(
のぞ
)
いてみたいような、
悪戯
(
いたずら
)
な誘惑に
唆
(
そそ
)
られて、そこへ降りて行ったのであったが、流れの音や、
四下
(
あたり
)
の
静
(
しずけ
)
さが、次第に
牾
(
もどか
)
しいような彼女の心をなだめて行った。
人の声がしたので、
跳
(
はね
)
あがるように身を起したお島の目に、松の枝葉を分けながら、山を降りて来る二人の姿がふと映った。お島は
可恥
(
はずか
)
しさに体が
慄然
(
ぞっ
)
と
立悚
(
たちすく
)
むようであった。
お島は二人の間に
挟
(
はさ
)
まれて、やがて細い崖道を降りて行ったが、目が時々涙に曇って、
足下
(
あしもと
)
が見えなくなった。
父親に引立てられて、お島が車に乗って、山間のこの温泉場を離れたのは、もう十時頃であった。石高な道に、車輪の音が高く響いて、長いあいだ耳についていた町の流れが、高原の平地へ出て来るにつれて、次第に遠ざかって行った。
夏時に
氾濫
(
はんらん
)
する水の迹の凄いような河原を
渉
(
わた
)
ると、しばらく忘れていたS――町のさまが、
直
(
じき
)
にお島の目に入って来た。見覚えのある場末の
鍛冶屋
(
かじや
)
や
桶屋
(
おけや
)
が、二三月前の自分の生活を懐かしく想出させた。軒の低い家のなかには、そっちこっちに白い
繭
(
まゆ
)
の
盛
(
も
)
られてあるのが目についた。諸方から入込んでいる繭買いの姿が、めっきり夏めいて来た町に、景気をつけていた。
お島は浜屋で父親に昼飯の給仕をすると、
碌々
(
ろくろく
)
男と口を利くひまもなく、
直
(
じき
)
に
停車場
(
ステーション
)
の方へ向ったが、主人も裏通りの方から見送りに来た。
「帰ってみて、もし
行
(
い
)
くところがなくて困るような時には、いつでも遣って来るさ」浜屋は切符をわたすとき、お島に
私語
(
ささや
)
いた。
停車場では、
鞄
(
かばん
)
や風呂敷包をさげた
繭商人
(
まゆあきゅうど
)
の姿が多く目に立った。汽車に乗ってからも、それらの人の繭や生糸の話で、持切りであった。窓から頭を出しているお島の曇った目に、鳥打をかぶって
畔伝
(
あぜづた
)
いに、町の裏通りへ入って行く浜屋の姿が、いつまでも見えた。汽車の進行につれて、S――町や、山の温泉場の姿が、段々彼女の
頭脳
(
あたま
)
に遠のいて行った。深い杉木立や、暗い森林が目の前に拡がって来た。ゆさゆさと風にゆられる若葉が、蒼い影をお島の顔に投げた。
自分を
窘
(
いじ
)
める好い材料を得たかのように、帰りを待ちもうけている母親の顔が、憶い出されて来た。お島はそれを避けるような、自分の落つき場所を考えて見たりした。