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七十五

 燈明の赤々と照している下で、お島たちはまるで今までの争いを忘れてしまったように、興奮した目を輝かして坐っていた。何か不思議な運命が、自分の身のうえにあるように、お島は考えていた。暗い 頭脳 ( あたま ) の底から、光が差してくるような気がした。

「ふむ、こう云うこともあるんだね」お島は感激したような声を出した。

「全く木村さんのいうことは当ったよ。して見ると、私は何でもヤマを張って成功する人間かも知れないね」

「お上さんの気前じゃ、 地道 ( じみち ) なことはとても駄目かも知れませんよ」

面倒 ( めんど ) くさい洋服屋なんか ( ) めて、株でも買った方がいいかも知れないね」

「そうですね。洋服屋なんてものは、とても見込はありませんね。 ( あっし ) は二日歩いてみて、つくづくこの商売が厭になってしまった」

 職人は首を 項垂 ( うなだ ) れて 溜息 ( ためいき ) ( ) いた。

「そんな事を言ったって、今更この商売が ( ) められるものか」小野田は何を言っているかと云う顔をして、呟いた。

 職人はやっぱり深く自分のことに思入っているように、それには耳も仮さなかった。

( あっし ) は早晩洋服屋って商売は駄目になると思うね。 羅紗 ( らしゃ ) 屋と裁縫師、その間に洋服屋なんて云う商人とも職工ともつかぬ、不思議な商売の 成立 ( なりたち ) を許さない時期が、今にきっと来ると思いますね」

 職人は興奮したような調子で言った。

「どうしてさ」お島は目元に笑って、「この人はまた妙なことを言出したよ」

「だってそうでしょう」職人は誰にもそれが解らないのが不思議のように熱心に、「だからお客は 莫迦 ( ばか ) に高いものを着せられて、職人はお ( たな ) のために働くということになる。その癖洋服屋は資本が寝ますから、小い店はとても成立って行きやしませんや。これはどうしたって、お客が直接地を買って、裁縫師に仕立を頼むってことにしなくちゃ ( うそ ) です」

「ふむ」とお島は首を ( かし ) げて 聴惚 ( ききほ ) れていた。今まで莫迦にしていたこの男が、何か耳新しい特殊な智識を持っている 悧巧 ( りこう ) 者のように思えて来た。

「君は職人だから、自分の都合のいいように考えるんだけれど、実地にはそうは行かないよ」小野田は 冷笑 ( あざわら ) った。

「だがこの人は莫迦じゃないね。何だか今に出世をしそうだよ」

 お島はそう言って、神棚から取おろした札束の中から、十円札を一枚持出すと、威勢よく表へ飛出して行った。

「おい、ちょっと己にもう一度見せろよ」小野田はそう言って、札を両手に引張りながら、物欲しそうな目を ( みは )

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った。

「好い気になって余りぱっぱと使うなよ」

 お島が方々札びらを切って、註文して来た酒や 天麩羅 ( てんぷら ) で、男達はやがて ( のみ ) はじめた。