University of Virginia Library

Search this document 

 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
 30. 
 31. 
 32. 
 33. 
 34. 
 35. 
 36. 
 37. 
 38. 
 39. 
 40. 
 41. 
 42. 
 43. 
 44. 
 45. 
 46. 
 47. 
 48. 
 49. 
 50. 
 51. 
 52. 
 53. 
 54. 
 55. 
 56. 
 57. 
 58. 
 59. 
 60. 
 61. 
 62. 
 63. 
 64. 
 65. 
 66. 
 67. 
 68. 
 69. 
 70. 
 71. 
 72. 
 73. 
 74. 
 75. 
 76. 
 77. 
 78. 
 79. 
 80. 
 81. 
 82. 
 83. 
 84. 
 85. 
 86. 
 87. 
 88. 
 89. 
 90. 
 91. 
 92. 
 93. 
 94. 
 95. 
 96. 
 97. 
 98. 
 99. 
 100. 
 101. 
 102. 
 103. 
 104. 
 105. 
 106. 
 107. 
 108. 
 109. 
百九
 110. 
 111. 
 112. 
 113. 
  

  

百九

 親思いの小野田が、田舎ではまだ物珍しがられる蓄音器などをさげて、根津の店が失敗したおりに 逐返 ( おいかえ ) したきりになっている、父親を ( よろこ ) ばせに行った頃には、彼が留守になっても 差閊 ( さしつか ) えぬだけの、 ( たち ) の上手な若い男などが来ていた。

 知った職人が、この頃小野田の裁を飽足らず思っているお島に、その男を周旋したのは、 間服 ( あいふく ) の註文などの盛んに出た四月の頃であったが、その職人は、来た時からお島の気に入っていた。

 自分でも店を ( ) ったりした経験のある、その職人は、最近に一緒にいた女と別れてそれまで持っていた 世帯 ( しょたい ) を畳んで、また職人の群へ ( ) ちて来たのであったが、悪いものには滅多に 剪刀 ( はさみ ) ( くだ ) そうとしない、彼の手に裁たれ、縫わるる服は、得意先でも評判がよかった。おっつけ仕事を間に合すことのできないその器用な遅い仕事振を、お島は時々傍から見ていた。体つきのすんなりしたその様子や、世間に明いその男は、お島たちの見も聞きもしたことのないような世界を知っていたが、親しくなるにつれて小野田と酒などを飲んでいるときに、ちょいちょい口にする自分自身の情話などが、一層彼女の心を ( ) いた。

「こんな仕事を私にさせちゃ損ですよ」

 彼はそう云って、どんな ( いそが ) しい時でも下等な仕事には手をつけることを ( がえん ) じなかった。

「それじゃお前さんは貧乏する訳さね」

 お島も ( からだ ) の弱いその男を、そんな仕事に不断に働かせるのを、痛々しく思った。

「それにお前さんは人品がいいから、身が持てないんだよ」

 お島は話ぶりなどに 愛嬌 ( あいきょう ) のあるその男の傍にすわっていると、 自然 ( ひとりで ) に顔を ( あか ) くしたりした。 黒子 ( ほくろ ) のような、青い ( ちいさ ) い入墨が、それを入れたとき握合った女とのなかについて、お島に異様な 憧憬 ( しょうけい ) をそそった。

「いくつの時分さ」

 お島はその手の入墨を発見したとき、耳の附根まで紅くして、 ( みだら ) な目を ( みは )

[_]
[42]
った。男はえへらえへらと、 ( しまり ) のない口元に笑った。

「あっしが十六ぐらいのときでしたろう」

「その女はどうしたの」

「どうしたか。多分大阪あたりにいるでしょう。そんな古い口は、もう ( とっく ) のむかしに忘れっちゃったんで......」

 暮に彼の手によって、濁ったところへ沈められた若い女のことが、まだ 頭脳 ( あたま ) に残っていた。

「そんな薄情な男は、私は ( きら ) いさ」

 お島はそう言って笑ったが、男がその時々に、さばさばしたような気持で、棄てて来た多くの女などに関する閲歴が、彼女の心を ( とろ ) かすような不思議な力をもっていた。

 蓄音器に、レコードを取かえながら、薄ら眠い目をしている小野田の傍をはなれて、お島はその男と、そんな話に ( ふけ ) った。