百九
親思いの小野田が、田舎ではまだ物珍しがられる蓄音器などをさげて、根津の店が失敗したおりに
逐返
(
おいかえ
)
したきりになっている、父親を
悦
(
よろこ
)
ばせに行った頃には、彼が留守になっても
差閊
(
さしつか
)
えぬだけの、
裁
(
たち
)
の上手な若い男などが来ていた。
知った職人が、この頃小野田の裁を飽足らず思っているお島に、その男を周旋したのは、
間服
(
あいふく
)
の註文などの盛んに出た四月の頃であったが、その職人は、来た時からお島の気に入っていた。
自分でも店を
有
(
も
)
ったりした経験のある、その職人は、最近に一緒にいた女と別れてそれまで持っていた
世帯
(
しょたい
)
を畳んで、また職人の群へ
陥
(
お
)
ちて来たのであったが、悪いものには滅多に
剪刀
(
はさみ
)
を
下
(
くだ
)
そうとしない、彼の手に裁たれ、縫わるる服は、得意先でも評判がよかった。おっつけ仕事を間に合すことのできないその器用な遅い仕事振を、お島は時々傍から見ていた。体つきのすんなりしたその様子や、世間に明いその男は、お島たちの見も聞きもしたことのないような世界を知っていたが、親しくなるにつれて小野田と酒などを飲んでいるときに、ちょいちょい口にする自分自身の情話などが、一層彼女の心を
惹
(
ひ
)
いた。
「こんな仕事を私にさせちゃ損ですよ」
彼はそう云って、どんな
忙
(
いそが
)
しい時でも下等な仕事には手をつけることを
肯
(
がえん
)
じなかった。
「それじゃお前さんは貧乏する訳さね」
お島も
躯
(
からだ
)
の弱いその男を、そんな仕事に不断に働かせるのを、痛々しく思った。
「それにお前さんは人品がいいから、身が持てないんだよ」
お島は話ぶりなどに
愛嬌
(
あいきょう
)
のあるその男の傍にすわっていると、
自然
(
ひとりで
)
に顔を
赧
(
あか
)
くしたりした。
黒子
(
ほくろ
)
のような、青い
小
(
ちいさ
)
い入墨が、それを入れたとき握合った女とのなかについて、お島に異様な
憧憬
(
しょうけい
)
をそそった。
「いくつの時分さ」
お島はその手の入墨を発見したとき、耳の附根まで紅くして、
猥
(
みだら
)
な目を
※
(
みは
)
った。男はえへらえへらと、
締
(
しまり
)
のない口元に笑った。
「あっしが十六ぐらいのときでしたろう」
「その女はどうしたの」
「どうしたか。多分大阪あたりにいるでしょう。そんな古い口は、もう
疾
(
とっく
)
のむかしに忘れっちゃったんで......」
暮に彼の手によって、濁ったところへ沈められた若い女のことが、まだ
頭脳
(
あたま
)
に残っていた。
「そんな薄情な男は、私は
嫌
(
きら
)
いさ」
お島はそう言って笑ったが、男がその時々に、さばさばしたような気持で、棄てて来た多くの女などに関する閲歴が、彼女の心を
蕩
(
とろ
)
かすような不思議な力をもっていた。
蓄音器に、レコードを取かえながら、薄ら眠い目をしている小野田の傍をはなれて、お島はその男と、そんな話に
耽
(
ふけ
)
った。