八十二
長い漂浪の旅から帰って来たお島たちを、思いのほか
潔
(
きよ
)
く受納れてくれた川西は、
被服廠
(
ひふくしょう
)
の仕事が出なくなったところから、その頃職人や店員の手を減して、店がめっきり寂しくなっていた。
そこへ入って行ったお島は、久しい前から、
世帯崩
(
しょたいくず
)
しの
年増女
(
としまおんな
)
を勝手元に働かせて、独身で暮している川西のために、時々上さんの
為
(
す
)
るような家事向の用事に、器用ではないが、しかし
活溌
(
かっぱつ
)
な働き振を見せていた。
前
(
せん
)
にいた職人が、女気のなかったこの家へ、どこからともなく連れて来て間もなく、主人との関係の怪しまれていたその年増は、渋皮の
剥
(
む
)
けた、色の浅黒い無智な顔をした
小躯
(
こがら
)
の女であったが、お島が住込むことになってから、一層綺麗にお
化粧
(
つくり
)
をして、上さん気取で長火鉢の傍に坐っていた。
始終
忙
(
せわ
)
しそうに、くるくる働いている川西は、夜は宵の口から二階へあがって、
臥床
(
ふしど
)
に就いたが、朝は女がまだ深い眠にあるうちから
床
(
とこ
)
を離れて、人の
好
(
よ
)
い
口喧
(
くちやかま
)
しい主人として、口のわるい職人や小僧たちから、蔭口を
吐
(
つ
)
かれていた。
お島は女が二階から降りて来ぬ間に、
手捷
(
てばし
)
こくそこらを掃除したり、朝飯の支度に気を配ったりしたが、
寝恍
(
ねぼ
)
けた様な
締
(
しまり
)
のない笑顔をして、女が起出して来る頃には、職人たちはみんな
食膳
(
しょくぜん
)
を離れて、奥の工場で彼女の
噂
(
うわさ
)
などをしながら、仕事に就いていた。
彼らが食事をするあいだ、裏でお島の洗い
灑
(
すす
)
ぎをしたものが、もう二階の物干で幾枚となく、高く昇った日に干されてあった。
「どうも済みませんね」
ばけつ
をがらがらいわせて、働いているお島の姿を見ると、それでも女は、
懈
(
だる
)
そうな声をかけて、日のじりじり照はじめて来た窓の外を眺めていた。毛並のいい
頭髪
(
あたま
)
を
銀杏返
(
いちょうがえ
)
しに結って、
中形
(
ちゅうがた
)
のくしゃくしゃになった
寝衣
(
ねまき
)
に、
紅
(
あか
)
い
仕扱
(
しごき
)
を締めた姿が、細そりしていた。
白粉
(
おしろい
)
の
斑
(
まだら
)
にこびりついたような額のあたりが、屋根から照返して来る日光に
汚
(
きたな
)
らしく見えた。
「どういたしまして」
お島は無造作に懸つらねた干物の間を
潜
(
くぐ
)
りぬけながら、
袂
(
たもと
)
で汗ばんだ顔を
拭
(
ふ
)
いていた。
「私は働かないではいられない性分ですからね。だから、どんなに働いたって何ともありませんよ」
「そう」
女はまだうっとりした夢にでも浸っているような、どこか暗い
目色
(
めつき
)
をしながら呟いた。
「私の寝るのは、大抵十二時か一時ですよ」
「そうですかね」お島は白々しいような返辞をして、「でも
可
(
い
)
いじゃありませんか。お秀さんは好い身分だって、
衆
(
みんな
)
がそう言っていますよ」
女は紅くなって、厭な顔をした。
「そうそう、お秀さんといっちゃ悪かったっけね。御免なさいよ」