七十三
二日ばかり捜しあるいた口が、どこにも見つからなかったのに
落胆
(
がっかり
)
した彼が、日の暮方に疲れて
渡場
(
わたしば
)
の方から帰って来たとき、家のなかは
其処
(
そこ
)
らじゅう水だらけになっていた。
以前友達の物を持逃したりなどしたために、警察へ突出そうとまで憤っている男もあって、急にぐれてしまった自分の悪い
噂
(
うわさ
)
が、そっちにも
此方
(
こっち
)
にも拡がっていることを感づいたほか、何の獲物もなかった彼は、当分またお島のところに置いてもらうつもりで、寒い渡しを
渡
(
わた
)
って、町へ入って来たのであったが、お島の影はどこにも見えずに、主人の小野田が
雑巾
(
ぞうきん
)
を持って、水浸しになった茶の間の畳をせっせと
拭
(
ふ
)
いていた。
気の小さい割には、
躯
(
からだ
)
の厳丈づくりで、厚手に出来た
唇
(
くちびる
)
や鼻の大きい
銅色
(
あかがねいろ
)
の皮膚をした彼は、
惘
(
あき
)
れたような顔をして、障子も
襖
(
ふすま
)
もびしょびしょした
茶
(
ちゃ
)
の
室
(
ま
)
の入口に突立っていた。
「どうしたんです、
私
(
あっし
)
の留守のまに
小火
(
ぼや
)
でも出たんですか」
「
何
(
なあ
)
に、
彼奴
(
あいつ
)
の
悪戯
(
いたずら
)
だ。為様のない化物だ」小野田はそう言って笑っていた。
昨日の晩から
頭顱
(
あたま
)
が痛いといってお島はその日一日充血したような目をして寝ていた。髪が総毛立ったようになって、荒い顔の皮膚が
巖骨
(
いわっころ
)
のように
硬張
(
こわば
)
っていた。そして時々うんうん
唸
(
うな
)
り声をたてた。
米や
醤油
(
したじ
)
を
時買
(
ときがい
)
しなければならぬような日が、三日も四日も二人に続いていた。お島は朝から
碌々
(
ろくろく
)
物も食べずに、不思議に今まで助かっていた鶴さん以来の
蒲団
(
ふとん
)
を
被
(
かぶ
)
って
臥
(
ふせ
)
っていた。
自身に台所をしたり、買いものに出たりしていた小野田には、女手のない家か何ぞのような勝手元や家のなかの荒れ方が、腹立しく目についたが、それはそれとして、時々苦しげな
呻吟
(
うめき
)
の聞える月経時の女の
躯
(
からだ
)
が、やっぱり不安であった。
「腰の骨が砕けて行きそうなの」
お島は傍へ寄って来る小野田の手に、
絡
(
から
)
みつくようにして、
赭
(
あか
)
く
淀
(
おど
)
み
曇
(
うる
)
んだ目を見据えていた。
小野田は優しい
辞
(
ことば
)
をかけて、腰のあたりを
擦
(
さす
)
ってやったりした。
「私はどこか体を悪くしているね。今までこんな事はなかったんだもの。私の体が人と
異
(
ちが
)
っているのかしら、誰でも
恁
(
こ
)
うかしら」お島は小野田に体に触らせながら、この頃になって
萌
(
きざ
)
しはじめて来た、自分か小野田かに生理的の欠陥があるのではないかとの疑いを、その時も小野田に訴えた。
お島は小野田に済まないような気のすることもあったが、この結婚がこんな苦しみを自分の肉体に
齎
(
もたら
)
そうとは想いもかけなかった。
お島は今着ているものの
聯想
(
れんそう
)
から鶴さんの肉体のことを言出しなどして、小野田を
気拙
(
きまず
)
がらせていた。男の体に反抗する女の手が、小野田の
火照
(
ほて
)
った
頬
(
ほお
)
に落ちた。
兇暴なお島は、夢中で水道の
護謨栓
(
ゴムせん
)
を向けて、男の
復讎
(
ふくしゅう
)
を防ごうとした。