三十九
お島は二三度
階下
(
した
)
へおりてみたけれど、鶴さんは、いつまで
経
(
た
)
っても、帳場から離れて来る様子もなかった。そのうちに表が段々静になって、夜が
更
(
ふ
)
けて来ると、店を片着けにかかっている物音が聞えたりして、鶴さんはやがて茶の間へ入って来た。お島は気持わるく
壊
(
くず
)
れた髪を、束髪に結直して、長火鉢の傍へ来て坐ってみたりしていたが、
頭脳
(
あたま
)
がぴんぴん痛みだして来たので、鶴さんが二階へ上って来る時分には、
彼女
(
かれ
)
もいつか
蒲団
(
ふとん
)
を
引被
(
ひっかつ
)
いで寝ていた。
「お先へ失礼しましたよ。何だか気分がわるいので」お島はそう言いながら、
呻吟声
(
うめきごえ
)
を立てていた。
鶴さんは床についてからも、白い細長い手を出して、今朝から見るひまもなかった新聞を、かさこそ音を立てて、
彼方
(
あっち
)
かえし
此方
(
こっち
)
返しして読んでいるらしかったが、するうちに、それを
投
(
ほう
)
りだして、枕につくかと思っていると、ぱちんと云う音がして、折鞄を開けて、何か取出したらしかった。後は
闃寂
(
ひっそり
)
して、下の
茶
(
ちゃ
)
の
室
(
ま
)
の
簷端
(
のきば
)
につるしてある鈴虫の声が時々耳につくだけであった。
お島は後向になったまま、何をするかと神経を
研
(
とぎ
)
すましていたが、今まで
懈
(
だる
)
くて為方のなかった目までが、ぽっかり
開
(
あ
)
いて来た。そして、ふと紙のうえを
軋
(
きし
)
る万年筆の音が、耳にふれて来ると、
渾身
(
からだじゅう
)
の全神経がそれに
錘
(
あつま
)
って来て、向返ってその方を見ない訳にいかなかった。
「何をしてるんです、今時分......」
お島はいきなり声を立てて、鶴さんを
吃驚
(
びっくり
)
させた。鞄のなかには、女の手紙が一二通はみ出しているのが見えた。
鶴さんは、ちらと
此方
(
こっち
)
を見たが、黙ってまたペンを動かしはじめた。お島はいらいらしい目をすえて、じっと見つめていたが、
忽
(
たちま
)
ち床から乗出して、その手紙を
褫奪
(
ひったく
)
ろうとした。
「おい、
戯談
(
じょうだん
)
じゃないぜ」
鶴さんはそれでも落着いたもので、そっと書かけの手紙を床の下へ押込もうとしたが、同時に、お島の手は傍にあった折鞄を
浚
(
さら
)
っていくために
臂
(
ひじ
)
まで
這出
(
はいだ
)
して来た。
「おい、ちょっと話がある」大分たってから、鶴さんは床のうえに起上って、疲れて枕に突伏になっているお島に声かけた。
暴出
(
あれだ
)
すお島を押えたために、可也興奮させられて来た鶴さんは、
爪痕
(
つめあと
)
のばら桜になっている腕をさすりながら、
莨
(
たばこ
)
を
喫
(
ふか
)
していた。
お島はまだ肩で息をしながら、やっぱり突伏していた。
「......お前のようなものに、勝手な
真似
(
まね
)
をされたんじゃ、商人はとても立って
行
(
ゆき
)
っこはありゃしないんだからね」鶴さんは、自分がこの家に対する責任や、家つきの
前
(
せん
)
の
内儀
(
かみ
)
さんに対する立場などを説立ててから言出した。
「そんな事は、おゆうさんにでも聞いてお
貰
(
もら
)
いなさい」お島は憎さげに
言
(
ことば
)
を返したまま、またくるりと後向になった。