三十三
夏の暑い盛りになってから、鶴さんは或日急に思立ったように北海道の方へ旅立つことになった。気の早い鶴さんは、晩にそれを言出すと、もうその翌朝夜のあけるのも待かねる風で、着替を入れた袋と、
手提鞄
(
てさげかばん
)
と
膝懸
(
ひざかけ
)
と
細捲
(
ほそまき
)
とを持って、
停車場
(
ステーション
)
まで見送の小僧を一人つれて、ふらりと出ていって了った。三四箇月のあいだに、商売上のことは大体
頭脳
(
あたま
)
へ入って来たお島は、すっかり後を引受けて
良人
(
おっと
)
を送出したが、意気な白地の
単衣
(
ひとえ
)
物に、
絞
(
しぼり
)
の
兵児帯
(
へこおび
)
をだらりと締めて、深いパナマを
冠
(
かぶ
)
った彼の後姿を見送ったときには、曽て覚えたことのない物寂しさと不安とを感じた。
それにお島は今月へ入ってからも、
毎時
(
いつも
)
のその時分になっても、まだ先月から自分一人の胸に疑問になっている月のものを見なかった。そうして
漸
(
やっ
)
とそれを言出すことのできたのは、鶴さんが
気忙
(
きぜわ
)
しそうに旅行の支度を調えてからの
昨夜
(
ゆうべ
)
であった。
「私何だか体の様子が
可笑
(
おかし
)
いんですよ。きっとそうだろうと思うの」一度床へついたお島は、
厠
(
かわや
)
へいって帰って来ると、
漸
(
やっ
)
とうとうとと眠りかけようとしている良人の
枕頭
(
まくらもと
)
に坐りながら言った。蒸暑い夏の夜は、まだ十時を打ったばかりの宵の口で、表はまだぞろぞろ
往来
(
ゆきき
)
の人の
跫音
(
あしおと
)
がしていた。朝の早い鶴さんは、いつも夜が早かった。
「そいつぁ
些
(
ちっ
)
と早いな。怪しいもんだぜ」などと、鶴さんは節の
暢々
(
のびのび
)
した白い手をのばして、
莨盆
(
たばこぼん
)
を引寄せながら、お島の顔を見あげた。鶴さんはその頃、お島の籍を入れるために、彼女の戸籍を見る機会を得たのであったが、戸籍のうえでは、お島は一度作太郎と結婚している
体
(
からだ
)
であった。それを知ったときには鶴さんは欺かれたとばかり思込んで、お島を突返そうと決心した。しかし鶴さんはその当座誰にもそれを言出す勇気を欠いていた。そしてお島だけには、ちょいちょい
当擦
(
あてこすり
)
や
厭味
(
いやみ
)
を言ったりして
漸
(
やっ
)
と鬱憤をもらしていたが、どうかすると、得意まわりをして帰る彼の顔に、酒気が残っていたりした。お島が帳場へ坐っている時々に、優しい女の声で、鶴さんへ電話がかかって来たりしたのも、その頃であった。そんな時は、お島は店の若いもののような
仮声
(
こわいろ
)
をつかって、
先
(
さき
)
の処と名を突留めようと骨を折ったが、その
効
(
かい
)
がなかった。お島はその頃から、鶴さんが外へ出て何をして歩いているか、解らないと云う不安と
猜疑
(
さいぎ
)
に悩されはじめた。植源の嫁のおゆう、それから自分の姉......そんな人達の身のうえにまで思い及ばないではいられなかった。日頃口に鶴さんを
讃
(
ほ
)
めている女が、片端から恋の
仇
(
かたき
)
か何ぞであるかのように思え出して来た。姉は、お島が片づいてからも、ちょいちょい訪ねて来ては、半日も遊んでいることがあった。
「それなら、何故私をもらってくれなかったんです」姉は、鶴さんに
揶揄
(
からか
)
われながら自分の様子をほめられたときに、半分は真剣らしく、半分は
笑談
(
じょうだん
)
らしく、妹のそこにあることを
意
(
こころ
)
にかけぬらしく、ぽっと上気したような顔をして言ったことがあったくらいであった。
お島はそれが
癪
(
しゃく
)
にさわったといって、後で鶴さんと
大喧嘩
(
おおげんか
)
をしたほどであった。