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七十八

 お島たちが、 ( より ) つく処もなくなって、一人は職人として、一人は註文取として、夫婦で築地の方の或洋服店へ住込むことになったのは、二人が半歳ばかり滞っていた小野田の故郷に近いN――と云う 可也 ( かなり ) 繁華な都会から帰ってからであった。

 一月から三月頃へかけて、店が全く支え切れなくなったところで、最初同じ商売に ( とり ) ついている知人を頼って、 上海 ( シャンハイ ) へ渡って行くつもりで、二人は小野田の故郷の方へ出向いて行ったのであったが、路用や何かの都合で、そこに暫く足を ( ) めているうちに、ついつい引かかって了ったのであった。

 二人が月島の店を引払った頃には、 三月 ( みつき ) ほどかかって案じ出した木村の新案ものも、古くから出ているものに類似品があったり、特許出願の入費がなかったりしたために、 ( どれ ) もこれも持腐れになってしまったのに 落胆 ( がっかり ) して、又渡り職人の仲間へ ( ) ちて行っていた。

 南の方の海に程近いN――市では二人は少しばかり持っている 著替 ( きがえ ) などの入った貧しい 行李 ( こうり ) を、小野田の妹の家で ( ) くことになったが、町には小野田の以前の知合も少くなかった。

 主人が勤人であった妹の家の二階に二三日寝泊りしていた二人は、そこから二里ばかり隔たった村落にいる小野田の父親に ( ) って、そこから出発するはずであったが、以前住んでいた家や田畑も人の手に渡って、貧しい百姓家の暮しをしている父親の様子を、一度行って見て来た小野田は、見すぼらしげな父親をお島に逢わせるのが心に ( はばか ) られた。東京に住つけた彼の目には、久しく見なかった ( みじ ) めな父親の生活が、自分にすら ( いと ) わしく思えた。

 逢いさえすれば、路費の出来そうに言っていた父親の家への同行を、お島は二度も三度も迫ってみたが、小野田は不快な顔をして、いつもそれを拒んだ。

 八九年前に、 効性 ( かいしょ ) ものの妻に 死訣 ( しにわか ) れてから、酒飲みの父親は日に日に生活が ( すさ ) んで行った。妻の働いているうちは、どうか ( こう ) 持堪 ( もちこた ) えていた家も、古くから積り積りして来ている負債の ( かた ) に取られて、彼は ( ささや ) かな小屋のなかに、 ( かろ ) うじて生きていた。

 到頭お島がつれられて行ったときに、彼は麦や空豆の作られた山畑の中に、熱い日に照されて 土弄 ( つちいじ ) りをしていたが、無智な顔をして畑から出て来る汚いその姿を見たときには、お島は 慄然 ( ぞっ ) とするほど厭であった。一緒に行った小野田に対する 軽蔑 ( けいべつ ) の念が一時に彼女の心を凍らしてしまった。