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九十二

 そこへ引越して行ったのは、その頃開かれてあった博覧会の ( にぎわ ) いで、土地が大した盛場になっていた為であった。

 その家は、不断は眠っているような静かな根津の通りであったが、今は毎日会場からの楽隊の響が聞えたり、地方から来る色々な団体見物の宿泊所が出来たりして、近い会場の浮立った 動揺 ( どよめき ) が、ここへも ( あわただ ) しい賑かしさを漂わしていた。

 陽気がややぽかついて来たところで、小野田が出した ( ねんご ) ろな手紙に ( いざな ) われて、田舎で毎日野良仕事に ( くたび ) れている彼の父親が、見物にやって来たり、お島から書送った同じ誘引状に接して、彼女が山で懇意になった人々が、どやどや入込んで来たりした。世のなかが景気づいて来たにつれて、お島たちは自分たちの浮揚るのは、何の造作もなさそうに思えていた。

 この店を張るについての、二人の苦しい 遣繰 ( やりくり ) を少しも知らない父親は、来るとすぐ ( せがれ ) 夫婦につれられて、会場を見せられて感激したが、これまで何一つ面白いものを見たこともない哀れな 老人 ( としより ) を、そうした盛り場に連出して悦ばせることが、お島に取っては、自分の感激に ( ) びるような満足であった。

 上野は青葉が日に日に濃い色を見せて来ていた。 ( あり ) のように四方から集ってくる群衆のうえに、 梅雨 ( つゆ ) らしい蒸暑い日が照りわたり、雨雲が陰鬱な影を投げるような日が、毎日毎日続いた。

 お島は新調の夏のコオトなどを着て、パナマを ( かぶ ) った小野田と一緒に、浮いたような気持で、毎日のように父親をつれて歩いたが、親に甘過ぎる男の無反省な態度が、時々彼女の犠牲的な心持を、裏切らないではいなかった。無知な 老人 ( としより ) ( たたず ) んで見るところでは、莫迦孝行な小野田は、女にのろい男か何ぞのように、いつまでも気長に傍についていて、離れなかった。驚きの目を ( みは )

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って、父親の立寄って行くところへは、どんな ( つま ) らないものでも、小野田も嬉しそうに ( ) いて行って見せたり、説明したりした。

「それどころじゃないんですよ。私たちはそう毎日々々親の機嫌を取っているほど、気楽な身分じゃないんですからね」

 晩方になると、きっとお仕着せを飲ませることに ( きま ) っている父親への、酒の支度を ( おろそ ) かにしたといって、小野田がその時も大病人のように二階に寝ていたお島に小言をいった。彼女は筋張った 顳※ ( こめかみ )

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のところを押えながら、小野田を 遣返 ( やりかえ ) した。

 お島はいつもそれが起ると、 生死 ( いきしに ) の境にでもあるような苦しみをする月経時の ( だる ) さと痛さとに ( もだ ) えていた。

「それに私はこの体です。とてもお父さんの面倒はみられませんよ」