七十九
それでお島は、小野田が自分をつれて来なかった理由が解ったような気がして、父親が
本意
(
ほい
)
ながるのも
肯
(
き
)
かずに、その日のうちにN――市へ引返して来たのであった。自分のこれまでがすっかり男に
瞞
(
だま
)
されていたように思われて、腹立しかったが、小野田が自分達のことをどんな風に父親に話しているかと思うと、
擽
(
くすぐ
)
ったいような
滑稽
(
こっけい
)
を感じた。
空濶
(
くうかつ
)
な平野には、麦や桑が青々と伸びて、泥田をかえしている農夫や馬の姿が、
所々
(
ところどころ
)
に見えた。
砂埃
(
すなぼこり
)
の立つ白い
路
(
みち
)
を、二人は
鈍
(
のろ
)
い
俥
(
くるま
)
に乗って帰って来たが、父親が
侑
(
すす
)
めてくれた濁酒に酔って、俥の上でごくりごくりと眠っている小野田の
坊主頸
(
ぼうずえり
)
をした大きい
頭脳
(
あたま
)
が、お島の目には
惨
(
みじめ
)
らしく滑稽にみえた。
この貧しげな在所から入って来ると、着いた当時は
鈍
(
のろ
)
くさくて
為方
(
しかた
)
のなかった寂しい町の
状
(
さま
)
が、可也
賑
(
にぎや
)
かで、豊かなもののように見えて来た。大きい洋風の建物が目についたり、東京にもみられないような奥行の深そうな美しい店屋や、
洒落
(
しゃれ
)
た
構
(
かまえ
)
の料理屋なども、物珍しく
眺
(
なが
)
められた。妹の
住
(
すま
)
っている静な町には、どんな人が生活しているかと思うような、門構の大きな家や庭がそこにも
此処
(
ここ
)
にもあった。
小野田の話によると、父親の財産として、
少
(
すこし
)
ばかりの山が、それでもまだ残っていると云うのであった。その山を売りさえすれば、
多少
(
いくらか
)
の金が手につくというのであった。そしてそうさせるには、二人で
機嫌
(
きげん
)
を取って、父親を
悦
(
よろこ
)
ばせてやらなければならないのである。
「そんな気の長いことを言っていた日には、いつ立てるか解りやしないじゃないか」
お島はその晩も二階で小野田と言争った。時々他国の書生や勤め人をおいたりなどして、妹夫婦が細い生活の
補助
(
たすけ
)
にしているその二階からは、町の活動写真のイルミネーションや、劇場の窓の
明
(
あかり
)
などが
能
(
よ
)
く見えた。
四下
(
あたり
)
には若葉が日に日に
繁
(
しげ
)
って、遠い
田圃
(
たんぼ
)
からは、
喧
(
かまびす
)
しい
蛙
(
かえる
)
の声が、物悲しく聞えた。春の支度でやって来た二人には、ここの陽気はもう大分暑かった。小野田はホワイト一枚になって寝転んでいたが、昔住慣れた町で、巧く行きさえすれば、お島と二人でここで面白い暮しができそうに思えた。
上海
(
シャンハイ
)
くんだりまで出かけて行くことが、重苦しい彼の心には
億劫
(
おっくう
)
に想われはじめていた。
「
厭
(
いや
)
なこった、こんな田舎の町なんか、成功したって高が知れている。東京へ帰ったって威張れやしないよ」そう言って拒むお島の空想家じみた
頭脳
(
あたま
)
には、ぼろい金儲けの転がっていそうな上海行が、自分に
箔
(
はく
)
をつける
一廉
(
ひとかど
)
の洋行か何ぞのように思われていた。