四十二
夜になると、お島はまた隠居の足腰をさすって、寝かしつけてやるのが、毎日の日課であったが、時とすると
子息
(
むすこ
)
夫婦に対する、病的な嫉妬から起るこの
老婦
(
としより
)
の兇暴な
挙動
(
ふるまい
)
をも
宥
(
なだ
)
めてやらなければならなかった。
四十代時分には、時々若い
遊人
(
あそびにん
)
などを
近
(
ちかづ
)
けたと云う噂のある隠居は、おゆうが嫁に来るまでは、
幼
(
ちいさ
)
い時から甘やかして育てて来た
子息
(
むすこ
)
の房吉を、
猫可愛
(
ねこかわゆ
)
がりに愛した。一度脳を
患
(
わずら
)
ったりなどしてから、気に
引立
(
ひったち
)
がなくなって、
温順
(
おとな
)
しい一方なのが、
彼女
(
かれ
)
には
不憫
(
ふびん
)
でならなかった。房吉は植木屋の仕事としては、これと云うこともさせられずに日を送って来たが、始終家にばかり引込んで、母親の傍に
率
(
ひき
)
つけられていたので、友達というものもなかった。絵の好きであった彼は、十六七の時分には、絵師になろうとの希望を
抱
(
いだ
)
きはじめたが、それも母親に
遮
(
さえぎ
)
られて、修業らしい修業もしずにしまった。
寝るにも起きるにも、自分ばかりを
凝視
(
みつ
)
めて暮しているような、年取った母親の
苛辣
(
からつ
)
な目が、房吉には段々
厭
(
いと
)
わしくなって来た。そして何時の頃からか時々顔を合す機会のあった、おゆうの懐かしい娘姿に心が
惹
(
ひき
)
つけられた。どんなことがあっても、おゆうちゃんを嫁に貰ってくれなければならない、房吉のそう言った
辞
(
ことば
)
が、母親の口から大秀やおゆうの耳へも入れられた。
結婚してからも、どうかすると、おゆうから離されて、房吉が
気鬱
(
きぶせ
)
な母親の側に寝かされたり、おゆうが夜おそくまで、母親の側に坐って、足腰を揉ませられたりした。
夜更
(
よなか
)
に
目敏
(
めざと
)
い母親の
跫音
(
あしおと
)
が、夫婦の
寝室
(
ねま
)
の外の縁側に聞えたり、
夜
(
よ
)
の
未明
(
ひきあけ
)
に板戸を引あけている、いらいらしい声が聞えたりした。
お島が来てからも、おゆうが物蔭で泣いているようなことが、時々あった。
家にいても、大抵きちんとした
身装
(
なり
)
をして、庭の方は職人まかせにして、自身は花を
活
(
い
)
けたり、書画を
弄
(
いじ
)
ったりして暮している内気な房吉は、どうかすると母親から、聴いていられないような毒々しい
辞
(
ことば
)
を浴せられた。
「あれを手前の子と思ってるのが、大間抜だ」母親はそうも言った。
衰えのみえる目などのめっきり水々して来たおゆうは、
爾時
(
そのとき
)
五月
(
いつつき
)
の腹を抱えていた。日に日に
気懈
(
けだる
)
そうにみえて来るおゆうの
媚
(
なまめ
)
いた姿や、良人に甘えるような素振が、母親には見ていられないほど腹立しくてならなかった。