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その八十五
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その八十五

 小野 富穀 ふこく とその子 道悦 どうえつ とが江戸を引き上げたのは、この年二月二十三日で、道中に二十五日を ついや し、三月十八日に弘前に いた。渋江氏の弘前に るに さきだ つこと二カ月足らずである。
 矢島 優善 やすゆき が隠居させられた時、跡を いだ 周禎 しゅうてい 一家 いっけ も、この年に弘前へ うつ ったが、その江戸を発する時、三男 三蔵 さんぞう は江戸に とど まった。前に 小田原 おだわら へ往った長男 周碩 しゅうせき と、この三蔵とは、後にカトリック教の宣教師になったそうである。弘前へ往った周禎は表医者 奥通 おくどおり に進み、その次男で嗣子にせられた 周策 しゅうさく もまた 目見 めみえ のち 表医者を命ぜられた。
 袖斎の姉須磨の夫 飯田良清 いいだよしきよ の養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した のち 、静岡藩に赴いて官吏になった。
 森 枳園 きえん はこの年七月に東京から福山に うつ った。当時の藩主は文久元年に伊予守 正教 まさのり のち けた 阿部 あべ 主計頭 かぞえのかみ 正方 まさかた であった。
 優善の友塩田 良三 りょうさん はこの年 浦和 うらわ 県の官吏になった。これより先良三は、優善が山田 椿庭 ちんてい の塾に ったのと ほとん ど同時に、伊沢柏軒の塾に って、柏軒にその才の 雋鋭 しゅんえい なるを認められ、 せつ を折って書を読んだ。文久三年に柏軒が歿してからは家に帰っていて、今 仕宦 しかん したのである。
 この年 箱館 はこだて っている 榎本武揚 えのもとたけあき を攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒の嗣子 棠軒 とうけん はこれに従って北に赴いた。そして渋江氏を富田新町に うた。棠軒は福山藩から 一粒金丹 いちりゅうきんたん を買うことを託せられていたので、この任を果たす かたわら 、故旧の安否を問うたのである。棠軒、名は 信淳 しんじゅん 、通称は 春安 しゅんあん 、池田 全安 ぜんあん が離別せられた のち に、榛軒の じょ かえの壻となったのである。かえは後に名をそのと あらた めた。おそのさんは現存者で、 市谷 いちがや 富久町 とみひさちょう の伊沢 めぐむ さんの もと にいる。徳さんは棠軒の嫡子である。
 抽斎歿後の第十一年は明治二年である。抽斎の四女 くが が矢川文一郎に嫁したのは、この年九月十五日である。
 陸が生れた弘化四年には、三女 とう がまだ三歳で、母の ふところ を離れなかったので、陸は生れ ちるとすぐに、 小柳町 こやなぎちょう の大工の 棟梁 とうりょう 新八というものの家へ 里子 さとこ られた。さて嘉永四年に棠が七歳で亡くなったので、母五百が五歳の陸を呼び返そうとすると、 たまたま 矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなって、陸を還すことを見あわせた。翌五年にようよう還った陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であった。しかし五百の胸をば棠を おし む情が全く占めていたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対しては すこぶ る自ら 抑遜 よくそん していなくてはならなかった。
 これに反して抽斎は陸を 愛撫 あいぶ して、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「 おれ はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を 為込 しこ んで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」
 陸はまた兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三もまた陸を愛する 一人 いちにん で、陸が手習をする時、手を って書かせなどした。抽斎が或日陸の清書を見て、「良三さんのお清書が うま く出来たな」といって 揶揄 からか ったことがある。
 陸は小さい時から 長歌 ながうた すき で、寒夜に裏庭の 築山 つきやま の上に登って、独り 寒声 かんごえ の修行をした。