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その七十三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その七十三

 抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版 薄葉刷 うすようずり の『 医方類聚 いほうるいじゅ 』を献ずることにしていた。書は 喜多村栲窓 きたむらこうそう の校刻する所で、月ごとに発行せられるのを、抽斎は生を終るまで次を って たてまつ った。 成善 しげよし は父の歿後相継いで納本していたが、この年に至って全部を献じ おわ った。八月十五日 順承 ゆきつぐ は重臣を以て成善に「御召御紋御羽織並御酒御吸物」を賞賜した。
 成善は二年 ぜん から海保 竹逕 ちくけい に学んで、この年十二月二十八日に、六歳にして藩主 順承 ゆきつぐ から奨学金二百匹を受けた。 おも なる 経史 けいし 素読 そどく おわ ったためである。母 五百 いお は子女に読書習字を授けて半日を ついや すを常としていたが、 ごう も成善の学業に干渉しなかった。そして「あれは書物が御飯より すき だから、構わなくても い」といった。成善はまた善く母に つか うるというを以て、賞を受くること両度に及んだ。
 この年十月十八日に成善が 筆札 ひっさつ の師小島成斎が六十七歳で歿した。成斎は朝生徒に習字を教えて、 つい で阿部家の やかた に出仕し、 午時 ごじ 公退して酒を飲み劇を談ずることを例としていた。阿部家では抽斎の歿するに先だつこと一年、安政四年六月十七日に 老中 ろうじゅう の職におった伊勢守正弘が世を去って、越えて八月に伊予守 正教 まさのり が家督相続をした。成善が従学してからは、成斎は始終正教に侍していたのである。後に至って成善は朝の課業の 喧擾 けんじょう を避け、午後に うて単独に おしえ を受けた。そこで成斎の観劇談を聴くことしばしばであった。成斎は 卒中 そっちゅう で死んだ。正弘の老中たりし時、成斎は 用人格 ようにんかく ぬきん でられ、公用人 服部 はっとり 九十郎と名を ひとし うしていたが、 二人 ににん 皆同病によって命を おと した。成斎には二子三女があって、長男 生輒 せいしょう は早世し、次男 信之 のぶゆき が家を継いだ。通称は 俊治 しゅんじ である。俊治の子は 鎰之助 いつのすけ 、鎰之助の養嗣子は、今本郷区 駒込 こまごめ 動坂町 どうざかちょう にいる 昌吉 しょうきち さんである。 高足 こうそく の一人 小此木辰太郎 おこのぎたつたろう は、明治九年に工務省 やとい になり、十人年内閣属に転じ、十九年十二月一日から二十七年三月二十九日まで職を学習院に奉じて、生徒に筆札を授けていたが、明治二十八年一月に歿した。
 成善がこの頃母五百と とも に浅草 永住町 ながすみちょう 覚音寺 かくおんじ もう でたことがある。覚音寺は五百の里方山内氏の 菩提所 ぼだいしょ である。帰途 二人 ふたり 蔵前通 くらまえどおり を歩いて桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女に 邂逅 かいこう した。これは五百と同じく藤堂家に仕えて、中老になっていた人である。五百は久しく消息の絶えていたこの女と話がしたいといって、ほど近い 横町 よこちょう にある料理屋 誰袖 たがそで に案内した。成善も跡に附いて往った。誰袖は当時 川長 かわちょう 青柳 あおやぎ 大七 だいしち などと並称せられた家である。
 三人の通った座敷の隣に 大一座 おおいちざ の客があるらしかった。しかし 声高 こえたか く語り合うこともなく、 まし てや 絃歌 げんか の響などは起らなかった。 しばら くあってその座敷が にわか に騒がしく、 多人数 たにんず の足音がして、跡はまたひっそりとした。
  給仕 きゅうじ に来た女中に五百が問うと、女中はいった。「あれは 札差 ふださし 檀那衆 だんなしゅ 悪作劇 いたずら をしてお いで なすったところへ、お たつ さんが飛び込んでお出なすったのでございます。 き散らしてあったお金をそのままにして置いて、檀那衆がお にげ なさると、お辰さんはそれを持ってお かえり なさいました」といった。お辰というのは、 のち ぬすみ をして捕えられた旗本 青木弥太郎 あおきやたろう しょう である。
 女中の語り おわ る時、両刀を帯びた異様の男が五百らの座敷に 闖入 ちんにゅう して「 手前 てまえ たちも 博奕 ばくち の仲間だろう、金を持っているなら、そこへ出してしまえ」といいつつ、 とう を抜いて威嚇した。
「なに、この かた が」と五百は叫んで、懐剣を抜いて った。男は はじめ の勢にも似ず、身を ひるがえ して逃げ去った。この年五百はもう四十七歳になっていた。